<名鉄神宮前下車>熱田神宮に参拝。早朝から警備員配置。仕事前参拝やスーツケースを持った人々はビジネスか旅行で訪れた人たちか?
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<名鉄神宮前下車>熱田神宮に参拝。早朝から警備員配置。仕事前参拝やスーツケースを持った人々はビジネスか旅行で訪れた人たちか?
<熱田神宮内・楠木)千年以上の樹齢木。境内に何本かある。
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<熱田神宮内・楠木)千年以上の樹齢木。境内に何本かある。
<旗屋町交差点・全隆寺を見る> 一応ここが今回の出発点。明治官製の百曲街道では中区門前町から江川に沿い南下して六番町辺りから西へ進むが・・。
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<旗屋町交差点・全隆寺を見る> 一応ここが今回の出発点。明治官製の百曲街道では中区門前町から江川に沿い南下して六番町辺りから西へ進むが・・。
<旗屋2・弥勒寺>名古屋二十一大師十三番札所
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<旗屋2・弥勒寺>名古屋二十一大師十三番札所
<千年1・白鳥橋と堀川>白鳥付近は堀川開削中心人物・福島正則左衛門大夫から「太夫堀」の名がついた。
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<千年1・白鳥橋と堀川>白鳥付近は堀川開削中心人物・福島正則左衛門大夫から「太夫堀」の名がついた。
<千年1・白鳥橋より堀川北を見る>工事に必要だった多くの人足は名古屋城普請参加の大名に強制的に割当られ約1年で完成。名古屋の物資流通の中心となる。
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<千年1・白鳥橋より堀川北を見る>工事に必要だった多くの人足は名古屋城普請参加の大名に強制的に割当られ約1年で完成。名古屋の物資流通の中心となる。
<一番町1・一番割観音・身代わり地蔵尊>ここが第一番観音札所。交通安全身代わり地蔵は平成19年地域の方が造った新しい仏像。
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<一番町1・一番割観音・身代わり地蔵尊>ここが第一番観音札所。交通安全身代わり地蔵は平成19年地域の方が造った新しい仏像。
<一番町1・一番割観音札所>
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<一番町1・一番割観音札所>
<一番割観音堂掲示の百曲街道パンフ1>毎月第3日曜は1〜33番割観音堂までの約10kmの巡礼を開催。当日は全観音堂の扉が開き、観音像を拝める。
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<一番割観音堂掲示の百曲街道パンフ1>毎月第3日曜は1〜33番割観音堂までの約10kmの巡礼を開催。当日は全観音堂の扉が開き、観音像を拝める。
<一番割観音堂に掲示の百曲街道パンフ2>尾張藩の強い新田開発への意欲。熱田海浜は遠浅で干拓・埋立に都合良し。1630代より鬼頭景義ら着手。17世紀中期に庄内川から熱田まで約一里の干拓新田化を初代藩主・義直ら計画・竣工。5年の歳月で熱田新田で石高3841石増。
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<一番割観音堂に掲示の百曲街道パンフ2>尾張藩の強い新田開発への意欲。熱田海浜は遠浅で干拓・埋立に都合良し。1630代より鬼頭景義ら着手。17世紀中期に庄内川から熱田まで約一里の干拓新田化を初代藩主・義直ら計画・竣工。5年の歳月で熱田新田で石高3841石増。
<一番割観音堂に掲示の百曲街道パンフ3>熱田新田は、熱田神宮近くが1番割。東から西の33番割まで区画割。熱田新田の一番北に沿って道が自然に形成され、これが百曲街道の元になった。
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<一番割観音堂に掲示の百曲街道パンフ3>熱田新田は、熱田神宮近くが1番割。東から西の33番割まで区画割。熱田新田の一番北に沿って道が自然に形成され、これが百曲街道の元になった。
<一番割観音堂に掲示されている百曲街道パンフ4>干拓安全事と土地守護を願い、各番割で西国三十三所に因んだ観音像を祀る。2〜3仏まとめ祀られている番割観音堂もある。
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<一番割観音堂に掲示されている百曲街道パンフ4>干拓安全事と土地守護を願い、各番割で西国三十三所に因んだ観音像を祀る。2〜3仏まとめ祀られている番割観音堂もある。
<一番割観音堂に掲示の江戸期からの新田開発図と百曲街道図>上の方にある太い線が百曲街道。その下の編み目模様になっている所が1647年完成の熱田新田。明治新田の文字の場所が「七里の渡」場所。
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<一番割観音堂に掲示の江戸期からの新田開発図と百曲街道図>上の方にある太い線が百曲街道。その下の編み目模様になっている所が1647年完成の熱田新田。明治新田の文字の場所が「七里の渡」場所。
<熱田区一番一丁目陸橋>道は国道一号線。
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<熱田区一番一丁目陸橋>道は国道一号線。
<一番町2・八剱社への路地>
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<一番町2・八剱社への路地>
<一番町2・八剱社>熱田一番町の氏神。この辺りのほとんどの八剣社や神明社には「天王社」と「秋葉社」が。
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<一番町2・八剱社>熱田一番町の氏神。この辺りのほとんどの八剣社や神明社には「天王社」と「秋葉社」が。
<二番町2・宝田寺・番神堂?>張り紙がされており、6月には仏壇や仏具は本遠寺へ引っ越し、現在地は数ヶ月の内に取り壊し予定。パンフの説明では「番神堂は新田開発当初に熱田・定徳寺の三十番神迎えて開いた由緒のある寺」。
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<二番町2・宝田寺・番神堂?>張り紙がされており、6月には仏壇や仏具は本遠寺へ引っ越し、現在地は数ヶ月の内に取り壊し予定。パンフの説明では「番神堂は新田開発当初に熱田・定徳寺の三十番神迎えて開いた由緒のある寺」。
<二番町1・熱田社>一号線を北に渡って、熱田社の中には龍神を祀る社もある。
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<二番町1・熱田社>一号線を北に渡って、熱田社の中には龍神を祀る社もある。
<二番町1・慈教寺>二番・三番割観音安置・中に入れない
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<二番町1・慈教寺>二番・三番割観音安置・中に入れない
<二番町1・天王社と秋葉社>だいたいこの形で安置されている二社。
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<二番町1・天王社と秋葉社>だいたいこの形で安置されている二社。
<四番町2・四番町神明社への路地>再び一号線を南に渡る。
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<四番町2・四番町神明社への路地>再び一号線を南に渡る。
<四番2・四番町神明社>船方小学校の北。
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<四番2・四番町神明社>船方小学校の北。
<四番1・熱田新田番割観音 四・五番割観音堂方向>右の緑のある場所が観音堂の場所。高速四号線が見えてくる。
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<四番1・熱田新田番割観音 四・五番割観音堂方向>右の緑のある場所が観音堂の場所。高速四号線が見えてくる。
<四番1・熱田新田番割観音 四・五番割観音堂>
1626年に地域の住民が集まり、新田干拓工事の安全祈願をしたようだ。
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<四番1・熱田新田番割観音 四・五番割観音堂>
1626年に地域の住民が集まり、新田干拓工事の安全祈願をしたようだ。
<四番1・熱田新田番割観音にある美しい地蔵>重軽地蔵尊。軽く抱え上げられたら願い事がかなう抱き地蔵の一種か。
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<四番1・熱田新田番割観音にある美しい地蔵>重軽地蔵尊。軽く抱え上げられたら願い事がかなう抱き地蔵の一種か。
<四番1・名古屋高速4号東海線・地下鉄六番町駅横>地上は高速、地下には六番町駅と江川の暗渠となり、高速と立体交差している。
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<四番1・名古屋高速4号東海線・地下鉄六番町駅横>地上は高速、地下には六番町駅と江川の暗渠となり、高速と立体交差している。
<六番1・熱田新田番割観音 六・七番割観音堂>高速真横。
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<六番1・熱田新田番割観音 六・七番割観音堂>高速真横。
<六番1・熱田新田番割観音 六・七番割観音堂>大矢橋の橋石
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<六番1・熱田新田番割観音 六・七番割観音堂>大矢橋の橋石
<六番1・熱田新田番割観音 六・七番割観音堂>江川に架かっていた大矢橋の親柱が横になっている。
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<六番1・熱田新田番割観音 六・七番割観音堂>江川に架かっていた大矢橋の親柱が横になっている。
<八番1・熱田新田番割観音 八・九番割観音堂>西に進むと分かれ道に観音堂。
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<八番1・熱田新田番割観音 八・九番割観音堂>西に進むと分かれ道に観音堂。
<八番1・熱田新田番割観音 八・九番割観音堂>道標
北の旧道分岐の場所からここへ移設しもので、「なごや」と「あつた」がこの場所では逆になる。
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<八番1・熱田新田番割観音 八・九番割観音堂>道標
北の旧道分岐の場所からここへ移設しもので、「なごや」と「あつた」がこの場所では逆になる。
<八番1>JR線路?下・熱田区から中川区に入る
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<八番1>JR線路?下・熱田区から中川区に入る
<八剣2・熱田新田番割観音 十・十一番割観音堂>境内が縦に長い。面白い人形が二体ある。
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<八剣2・熱田新田番割観音 十・十一番割観音堂>境内が縦に長い。面白い人形が二体ある。
<十一番1>情緒のある古民家。
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<十一番1>情緒のある古民家。
<八剣4>番割の名前をつけた米穀店
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<八剣4>番割の名前をつけた米穀店
<八剣4・八劔公園>大きな敷地がある。昔は参道が南北に長かったようだ。
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<八剣4・八劔公園>大きな敷地がある。昔は参道が南北に長かったようだ。
<中川区福川5>昭和橋。中川は上流は笈瀬川。
中川の左右で熱田新田は西組と東組に分けられていた。1932年中川開削で中川運河竣工。工業地帯の基盤整備。
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<中川区福川5>昭和橋。中川は上流は笈瀬川。
中川の左右で熱田新田は西組と東組に分けられていた。1932年中川開削で中川運河竣工。工業地帯の基盤整備。
<中川区福川5>昭和橋。西組では○船町、東組では○川町といった具合。縁起の良い名を○に入れて対比させたらしい。(福船町・福川町)(玉船町・玉川町)
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<中川区福川5>昭和橋。西組では○船町、東組では○川町といった具合。縁起の良い名を○に入れて対比させたらしい。(福船町・福川町)(玉船町・玉川町)
<港区新船1・小碓橋上>中川運河に沿って南にどんどん下りる。大型トラックが轟音をたて走る。左右は大きな工場やらマンションが並ぶ。
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<港区新船1・小碓橋上>中川運河に沿って南にどんどん下りる。大型トラックが轟音をたて走る。左右は大きな工場やらマンションが並ぶ。
<須成3・熱田新田番割観音 十二・十三番割観音堂>新田干拓の率先者・鬼頭勘兵衛の観音様の夢枕の話。「水の引くところに鶴がとまる。そこから埋立せよ。」
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<須成3・熱田新田番割観音 十二・十三番割観音堂>新田干拓の率先者・鬼頭勘兵衛の観音様の夢枕の話。「水の引くところに鶴がとまる。そこから埋立せよ。」
<十三番観音>観音様に手を合わす。
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<十三番観音>観音様に手を合わす。
<十二番観音>観音様を拝見でき幸せだ。
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<十二番観音>観音様を拝見でき幸せだ。
<須成2素盞鳴神社>広い境内がある。建物は鉄筋コンクリートか?
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<須成2素盞鳴神社>広い境内がある。建物は鉄筋コンクリートか?
<港区丸池1>なぜ愛知の南西端のこの場所に愛知県武道館が建設されたのだろう。
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<港区丸池1>なぜ愛知の南西端のこの場所に愛知県武道館が建設されたのだろう。
<昭明3・熱田新田番割観音 十七番割観音堂>中川区へ戻る。十七番が14〜16番より少し西にある。
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<昭明3・熱田新田番割観音 十七番割観音堂>中川区へ戻る。十七番が14〜16番より少し西にある。
<昭明2・昭明公園・神明社>これも広い場所で隣も公園。
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<昭明2・昭明公園・神明社>これも広い場所で隣も公園。
<松年2・天年寺>熱田新田番割観音十四・十五・十六番割観音堂。内部には入ることはできない。
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<松年2・天年寺>熱田新田番割観音十四・十五・十六番割観音堂。内部には入ることはできない。
<明徳1・熱田新田番割観音 十八・十九番割観音堂>道傍にそっとある。
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<明徳1・熱田新田番割観音 十八・十九番割観音堂>道傍にそっとある。
<明徳1・地蔵堂>
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<明徳1・地蔵堂>
<明徳4・小碓緑道>こちらは住宅地だが、南隣は大工場などがある。
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<明徳4・小碓緑道>こちらは住宅地だが、南隣は大工場などがある。
<正徳1・熱田新田番割観音 二十番割観音堂>また港区に入る。五穀豊穣を祈願。土地の守護仏。
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<正徳1・熱田新田番割観音 二十番割観音堂>また港区に入る。五穀豊穣を祈願。土地の守護仏。
<正徳1・正徳神明社>
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<正徳1・正徳神明社>
<正徳4・番割観音堂・二十一・二十二・二十三番>
堂の前には大きな藤棚がある。
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<正徳4・番割観音堂・二十一・二十二・二十三番>
堂の前には大きな藤棚がある。
<正徳4・番割観音堂・二十一・二十二・二十三番>境内には石柱があるが判読できない。
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<正徳4・番割観音堂・二十一・二十二・二十三番>境内には石柱があるが判読できない。
<中島新町3・荒子川・中島橋>本来なら一本南の荒子橋を渡るべきところだった。
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<中島新町3・荒子川・中島橋>本来なら一本南の荒子橋を渡るべきところだった。
<中島新町3>写真は民家跡。空雲寺に立ち寄らず。鬼頭景義建立。尾張西部に約30もの新田を開発。一説には合計石高は二万三千石にもなる。出家し円寂道龍空雲居士。寺には墓碑と木像があり、船形作りの黒松がある。
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<中島新町3>写真は民家跡。空雲寺に立ち寄らず。鬼頭景義建立。尾張西部に約30もの新田を開発。一説には合計石高は二万三千石にもなる。出家し円寂道龍空雲居士。寺には墓碑と木像があり、船形作りの黒松がある。
<港区小碓1>地蔵院・二十五番
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<港区小碓1>地蔵院・二十五番
<小碓1・熱田新田番割観音 二十六・二十七・二十八番割観音堂>親切にも近所の方がいろいろ教えていただいた。
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<小碓1・熱田新田番割観音 二十六・二十七・二十八番割観音堂>親切にも近所の方がいろいろ教えていただいた。
<小碓1・熱田新田番割観音 二十六・二十七・二十八番割観音堂>それぞれの地域の方が見守り保存しているお堂なのだと実感した。
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<小碓1・熱田新田番割観音 二十六・二十七・二十八番割観音堂>それぞれの地域の方が見守り保存しているお堂なのだと実感した。
<小碓1・神明社>1669年。神楽は1789〜1800年に作成。黒松あり。
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<小碓1・神明社>1669年。神楽は1789〜1800年に作成。黒松あり。
<小碓1・神明社>
尾張藩愛知郡熱田新田二十八番割を表す石碑
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<小碓1・神明社>
尾張藩愛知郡熱田新田二十八番割を表す石碑
<小碓1・秋葉神社>
今日歩いた中で一番大きな秋葉神社
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<小碓1・秋葉神社>
今日歩いた中で一番大きな秋葉神社
神楽保存庫・二十四番割観音堂の右横にある
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神楽保存庫・二十四番割観音堂の右横にある
<小碓4・熱田新田番割観音 二十四番割観音堂>
二十四番が二十五〜二十八番よりも西にある?
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<小碓4・熱田新田番割観音 二十四番割観音堂>
二十四番が二十五〜二十八番よりも西にある?
<西中島1>なるほど街道と感じる雰囲気の道が続く。
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<西中島1>なるほど街道と感じる雰囲気の道が続く。
<明正1>西亥橋・稲葉地井水
中島新田ができたのが熱田新田以前の寛永12年(1635年)。熱田新田の中で一番西に位置する橋
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<明正1>西亥橋・稲葉地井水
中島新田ができたのが熱田新田以前の寛永12年(1635年)。熱田新田の中で一番西に位置する橋
<東起1>白山社を見る。白山社は前田氏の東起城址?尾張藩主・義直が鷹狩りで休憩に使った場所だそうだ。
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<東起1>白山社を見る。白山社は前田氏の東起城址?尾張藩主・義直が鷹狩りで休憩に使った場所だそうだ。
<明正1・熱田新田番割観音 二十九・三十・三十一・三十二番割観音堂>天明年間に庄内川の川筋が変わり、三十三番割観音堂は川底に。
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<明正1・熱田新田番割観音 二十九・三十・三十一・三十二番割観音堂>天明年間に庄内川の川筋が変わり、三十三番割観音堂は川底に。
<明正1・熱田新田番割観音 二十九・三十・三十一・三十二番割観音堂>ユーモラスな顔の仏像だ。
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<明正1・熱田新田番割観音 二十九・三十・三十一・三十二番割観音堂>ユーモラスな顔の仏像だ。
<明正1・神明社>1779年。アキニレ・クロガネモチの市指定樹木。5月に五穀祭り、10月に秋祭り。
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<明正1・神明社>1779年。アキニレ・クロガネモチの市指定樹木。5月に五穀祭り、10月に秋祭り。
<明正1・地蔵祠の馬頭観音>新しそうだ。
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<明正1・地蔵祠の馬頭観音>新しそうだ。
<明正2・百曲街道の案内板>初めて案内板を見た。曲りくねった道が気持ちよく続くがもう終わりが近づく。
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<明正2・百曲街道の案内板>初めて案内板を見た。曲りくねった道が気持ちよく続くがもう終わりが近づく。
<明正2・庄内川堤防が見えてくる>
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<明正2・庄内川堤防が見えてくる>
<明正2・庄内川堤防を見上げる>百曲街道終点地。
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<明正2・庄内川堤防を見上げる>百曲街道終点地。
<当知4・明徳橋より北>新川と庄内川に挟まれた三角緑地より。
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<当知4・明徳橋より北>新川と庄内川に挟まれた三角緑地より。
<下之一色町字三角西緑地>新川を見る。下ノ一色は2つの川の三角州突端に位置し、鎌倉期より漁業で繁栄。大正〜昭和にかけても名古屋の魚台所として隆盛を極めた。
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<下之一色町字三角西緑地>新川を見る。下ノ一色は2つの川の三角州突端に位置し、鎌倉期より漁業で繁栄。大正〜昭和にかけても名古屋の魚台所として隆盛を極めた。
<下之一色町字三角東緑地>庄内川と名古屋ビル群を見る。太平洋戦争や伊勢湾台風後に次第に漁業が衰退。
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<下之一色町字三角東緑地>庄内川と名古屋ビル群を見る。太平洋戦争や伊勢湾台風後に次第に漁業が衰退。
<下之一色町>路地の多い漁師町。狭い道は「閑所」と呼ばれるそうだ。
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<下之一色町>路地の多い漁師町。狭い道は「閑所」と呼ばれるそうだ。
<下之一色町>地蔵祠の地蔵
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<下之一色町>地蔵祠の地蔵
<下之一色町>坂の下の地蔵祠を見る。
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<下之一色町>坂の下の地蔵祠を見る。
<下之一色町>魚市場と新川にかかる明徳橋
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<下之一色町>魚市場と新川にかかる明徳橋
<下之一色町>銭湯・新元湯跡
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<下之一色町>銭湯・新元湯跡
<下之一色町>漁業施設。
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<下之一色町>漁業施設。
<下之一色町>漁港。江戸期は船問屋、魚問屋、貝問屋が建ち並び、民家も密集。蠣、蛤などが尾張藩に献上されていた。
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<下之一色町>漁港。江戸期は船問屋、魚問屋、貝問屋が建ち並び、民家も密集。蠣、蛤などが尾張藩に献上されていた。
<下之一色町・南ノ切>浅間社。下ノ一色祭りの民俗文化財・神楽屋台や曲打ち太鼓は有名。
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<下之一色町・南ノ切>浅間社。下ノ一色祭りの民俗文化財・神楽屋台や曲打ち太鼓は有名。
<下之一色町・南ノ切>浅間社に向かう広い中心道路。
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<下之一色町・南ノ切>浅間社に向かう広い中心道路。
<下之一色町中ノ切>堤防上の中ノ切観音堂(みよどめ観音)>
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<下之一色町中ノ切>堤防上の中ノ切観音堂(みよどめ観音)>
<下之一色町中ノ切>中ノ切観音堂(みよどめ観音)熱田新田番割観音 三十三番割観音堂。干拓堤防工事の最後の堤防締切を「澪(みよ)どめ」と呼ぶ。鬼頭景義が祈願した三十三割番堂は川筋変化でここ新川堤防に移設。
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<下之一色町中ノ切>中ノ切観音堂(みよどめ観音)熱田新田番割観音 三十三番割観音堂。干拓堤防工事の最後の堤防締切を「澪(みよ)どめ」と呼ぶ。鬼頭景義が祈願した三十三割番堂は川筋変化でここ新川堤防に移設。
<下之一色町中ノ切>中ノ切観音堂
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<下之一色町中ノ切>中ノ切観音堂
<下之一色町商店街>三十三番割観音堂の言葉「憎まれ口に泣き言に、人の陰口、ぐち言わず、他人のことはほめなはれ、いつでもアホでおりなはれ」
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<下之一色町商店街>三十三番割観音堂の言葉「憎まれ口に泣き言に、人の陰口、ぐち言わず、他人のことはほめなはれ、いつでもアホでおりなはれ」
<下之一色町>1850年、下ノ一色の漁師達が伊勢志摩半島の漁師達の信仰が篤い青峯山正福寺から勧請して「青峯堂」を堤防に建立。今は「井愛の里」の中庭に石碑。
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<下之一色町>1850年、下ノ一色の漁師達が伊勢志摩半島の漁師達の信仰が篤い青峯山正福寺から勧請して「青峯堂」を堤防に建立。今は「井愛の里」の中庭に石碑。
<下之一色町>堤防上の地蔵祠
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<下之一色町>堤防上の地蔵祠
<新川堤防より三日月橋と正色小学校>向かいは富田町江松。正色小学校敷地に前田氏の下ノ一色城址の石碑。城は三日月橋の下流にあったが、1584年の蟹江合戦で落城。城址も新田開発時に川底へ。本日はここまで。
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<新川堤防より三日月橋と正色小学校>向かいは富田町江松。正色小学校敷地に前田氏の下ノ一色城址の石碑。城は三日月橋の下流にあったが、1584年の蟹江合戦で落城。城址も新田開発時に川底へ。本日はここまで。
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