【1日目/晴午後小雨】北浜6:00出発して、ここ高麗橋にある「里程元標跡」石標。
2
3/11 6:06
【1日目/晴午後小雨】北浜6:00出発して、ここ高麗橋にある「里程元標跡」石標。
西日本主要道路の里程計算をここ起点に行われたと記載
1
3/11 6:07
西日本主要道路の里程計算をここ起点に行われたと記載
熊野街道はこのあたりを起点にして、熊野三山に至る道。平安時代から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野道」といわれる情景が続いた。江戸時代には京・大阪間を結ぶ30石船で賑わったという。
1
3/11 6:14
熊野街道はこのあたりを起点にして、熊野三山に至る道。平安時代から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野道」といわれる情景が続いた。江戸時代には京・大阪間を結ぶ30石船で賑わったという。
背割り下水(別名 太閤下水)。江戸時代初期に造られた石組の下水道。「太閤下水」の呼称から豊臣秀吉が行った大坂の町作りと関連づけられている。
1
3/11 6:29
背割り下水(別名 太閤下水)。江戸時代初期に造られた石組の下水道。「太閤下水」の呼称から豊臣秀吉が行った大坂の町作りと関連づけられている。
道路上の石標。意外と気づかれにくい標識です。長堀通りの一つ北側の道を東へ。
1
3/11 6:36
道路上の石標。意外と気づかれにくい標識です。長堀通りの一つ北側の道を東へ。
玉造稲荷神社の山門。6:56
1
3/11 6:56
玉造稲荷神社の山門。6:56
玉造稲荷神社の由緒。創祀は垂仁天皇十八年(紀元前十二年)とされ、古代は「日本書紀」に記された玉作部の居住地にもなりました・・・と記載。
1
3/11 6:56
玉造稲荷神社の由緒。創祀は垂仁天皇十八年(紀元前十二年)とされ、古代は「日本書紀」に記された玉作部の居住地にもなりました・・・と記載。
伊勢迄歩講起点。道中安全の祈願をして旅立ったと云われ、石碑の側面に「是より神宮まで百七十キロ」と記載
1
3/11 6:58
伊勢迄歩講起点。道中安全の祈願をして旅立ったと云われ、石碑の側面に「是より神宮まで百七十キロ」と記載
二軒茶屋跡。旧街道への大阪側からの入口で、街道の南北両側には旅行者目当ての茶屋店があり、俗に「二軒茶屋」と呼ばれ繁昌した、と記載。
1
3/11 7:17
二軒茶屋跡。旧街道への大阪側からの入口で、街道の南北両側には旅行者目当ての茶屋店があり、俗に「二軒茶屋」と呼ばれ繁昌した、と記載。
大今里西にあった越奈良街道の石標。高麗橋から4.1キロと記載。もっと歩いた印象だが・・。
1
3/11 7:26
大今里西にあった越奈良街道の石標。高麗橋から4.1キロと記載。もっと歩いた印象だが・・。
今里にある「暗越奈良街道」標識。
1
3/11 7:36
今里にある「暗越奈良街道」標識。
堺屋太一氏の銘ある案内板。暗越奈良街道はシルクロードの終わるところ・・。江戸時代、伊勢参りが爆発的に流行した折には1日7万人がこの道を伊勢に向かっていた、と記載。芭蕉の句「菊の春に くらがり登る 節句かな」
1
3/11 7:36
堺屋太一氏の銘ある案内板。暗越奈良街道はシルクロードの終わるところ・・。江戸時代、伊勢参りが爆発的に流行した折には1日7万人がこの道を伊勢に向かっていた、と記載。芭蕉の句「菊の春に くらがり登る 節句かな」
東大阪市高井田本通にある歴史の道の石碑。弥々子の歌「春風に 顔をなでられて 高井田を 暗がり越えて 奈良の都へ」
1
3/11 8:11
東大阪市高井田本通にある歴史の道の石碑。弥々子の歌「春風に 顔をなでられて 高井田を 暗がり越えて 奈良の都へ」
東大阪市菱屋東にある石標。
すぐ (まっすぐの意)・石切瓢箪山奈良 左・住道・四条畷
1
3/11 9:12
東大阪市菱屋東にある石標。
すぐ (まっすぐの意)・石切瓢箪山奈良 左・住道・四条畷
松原宿跡。暗越奈良街道は大坂と奈良間を最短距離の八町八丁(34キロ)を繋ぐ古道の一つ。江戸時代、この道は脇往還として発達し、伊勢参りなどで賑わった。1855−58年頃、街道支配のために街道間唯一の宿場として「松原宿」を公式に設けられ、旧大和川の合流・吉田川と恩智川との間に位置し、水運でも栄えた場所
1
3/11 9:40
松原宿跡。暗越奈良街道は大坂と奈良間を最短距離の八町八丁(34キロ)を繋ぐ古道の一つ。江戸時代、この道は脇往還として発達し、伊勢参りなどで賑わった。1855−58年頃、街道支配のために街道間唯一の宿場として「松原宿」を公式に設けられ、旧大和川の合流・吉田川と恩智川との間に位置し、水運でも栄えた場所
恩智川の両岸に咲いていた菜の花。
1
3/11 9:52
恩智川の両岸に咲いていた菜の花。
枚岡駅北側の線路下を抜けた所にある標識。道幅狭い急登の国道308号線が続きます
1
3/11 10:29
枚岡駅北側の線路下を抜けた所にある標識。道幅狭い急登の国道308号線が続きます
弘法の水と笠塔婆。暗峠を前にした所で湧き出ている。古代来頻繁に利用されてきたこの道を通る人々の潤いの場所となっていた。
1
3/11 11:00
弘法の水と笠塔婆。暗峠を前にした所で湧き出ている。古代来頻繁に利用されてきたこの道を通る人々の潤いの場所となっていた。
1
3/11 11:10
暗越峠455m。ここから奈良県です。11:10
1
3/11 11:12
暗越峠455m。ここから奈良県です。11:10
日本の道100選。11:10、ここまで休みなしに歩いてきたというより、休憩場所がありませんでした。
1
3/11 11:13
日本の道100選。11:10、ここまで休みなしに歩いてきたというより、休憩場所がありませんでした。
南生駒駅を過ぎ20分程登った所に足湯がある休憩所。多くはないが足湯を利用する人が絶えませんでした。靴を脱ぐのが面倒だったので、ランチ休憩とトイレを使わせて頂きました。13:00出発
1
3/11 12:41
南生駒駅を過ぎ20分程登った所に足湯がある休憩所。多くはないが足湯を利用する人が絶えませんでした。靴を脱ぐのが面倒だったので、ランチ休憩とトイレを使わせて頂きました。13:00出発
足湯の休憩所から見た生駒山
1
3/11 13:05
足湯の休憩所から見た生駒山
榁木峠への急登の途中にあった「弘法大師参詣道」の道標がありました。
1
3/11 13:19
榁木峠への急登の途中にあった「弘法大師参詣道」の道標がありました。
「矢田山遊びの森」石標と標識
1
3/11 13:28
「矢田山遊びの森」石標と標識
追分神社の山門
1
3/11 13:38
追分神社の山門
追分梅林 近くにあった石標。「右・こをりやま、左・なら はせ いせ 道 安永二年(1773)」と刻まれていました。
1
3/11 13:42
追分梅林 近くにあった石標。「右・こをりやま、左・なら はせ いせ 道 安永二年(1773)」と刻まれていました。
垂仁天皇陵
1
3/11 14:41
垂仁天皇陵
奈良市の幹線道路・三条通りを歩いてきた途中にあったJR奈良駅。閑散とした広場にあった常夜灯。16:00
1
3/11 15:55
奈良市の幹線道路・三条通りを歩いてきた途中にあったJR奈良駅。閑散とした広場にあった常夜灯。16:00
JR奈良駅から猿沢池迄は観光客の人通りが多かったが、猿沢池前で絶えた瞬間を狙い撮りました。ここから少し行った所に明治21年設置の「奈良県里程元標」があるようですが、小雨が降り始めパス。先を急ぎます。
1
3/11 16:15
JR奈良駅から猿沢池迄は観光客の人通りが多かったが、猿沢池前で絶えた瞬間を狙い撮りました。ここから少し行った所に明治21年設置の「奈良県里程元標」があるようですが、小雨が降り始めパス。先を急ぎます。
1
3/11 16:20
1
3/11 16:20
今御門町(いまみかどちょう)の古い家屋が残る家並みを南下します。所々に有形文化財登録の建物が点在ています。
1
3/11 16:21
今御門町(いまみかどちょう)の古い家屋が残る家並みを南下します。所々に有形文化財登録の建物が点在ています。
猿田彦神社。平城天皇(第51代)の時代に元興寺境内に創建。
1
3/11 16:23
猿田彦神社。平城天皇(第51代)の時代に元興寺境内に創建。
文化庁登録有形文化財の建物。
1
3/11 16:24
文化庁登録有形文化財の建物。
平城京と明日香を結ぶ三つの街道「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」があり、伊勢本街道となっている「上ツ道」を南下していきます。
1
3/11 16:30
平城京と明日香を結ぶ三つの街道「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」があり、伊勢本街道となっている「上ツ道」を南下していきます。
元興寺は蘇我馬子が飛鳥に建立した仏教寺院。奈良時代、東大寺・興福寺と並ぶ大寺院(法興寺)。八世紀初めに平城京に移した古代の大寺だったが、中世期以降火災等もあり、町の発展に伴い大半は宅地化した・・。
1
3/11 16:29
元興寺は蘇我馬子が飛鳥に建立した仏教寺院。奈良時代、東大寺・興福寺と並ぶ大寺院(法興寺)。八世紀初めに平城京に移した古代の大寺だったが、中世期以降火災等もあり、町の発展に伴い大半は宅地化した・・。
「漢方薬総本家菊岡」の店。先祖は藤原氏の系譜に連なり、平安末期の1184年から事業に携わる。現当主は24代目。
1
3/11 16:32
「漢方薬総本家菊岡」の店。先祖は藤原氏の系譜に連なり、平安末期の1184年から事業に携わる。現当主は24代目。
「史蹟 元興寺 塔址」の石標。
1
3/11 16:35
「史蹟 元興寺 塔址」の石標。
「砂糖傅」。安政元年創業(約160年前)で取扱商品は、御門米飴、奈良こんふえいと(金平糖)、和三盆など。(HPより)
1
3/11 16:38
「砂糖傅」。安政元年創業(約160年前)で取扱商品は、御門米飴、奈良こんふえいと(金平糖)、和三盆など。(HPより)
約1100年前の55代文徳天皇は后に子供が授からなかった為、祖神 春日明神のお告げにより帯解地蔵菩薩お祈りしたところ懐妊し安産することができた。天皇は858年に大伽藍を建立し、寺号を改め帯が解けた寺、帯解寺オビトケデラと勅命された。以来、安産の寺として今に至る(HPより)。
1
3/11 17:34
約1100年前の55代文徳天皇は后に子供が授からなかった為、祖神 春日明神のお告げにより帯解地蔵菩薩お祈りしたところ懐妊し安産することができた。天皇は858年に大伽藍を建立し、寺号を改め帯が解けた寺、帯解寺オビトケデラと勅命された。以来、安産の寺として今に至る(HPより)。
【2日目/快晴】帯解駅・トイレにある水道水2L頂き、駅西側にある広沢池手前の高台にビバーク地を見つけ、18:05第一日目のネグラとした。翌朝5:45出発。上記写真は櫟本駅近くの上ツ道・街道筋。朝方は人も車も皆無、新鮮な空気が歩行意欲を増します。
1
3/12 6:35
【2日目/快晴】帯解駅・トイレにある水道水2L頂き、駅西側にある広沢池手前の高台にビバーク地を見つけ、18:05第一日目のネグラとした。翌朝5:45出発。上記写真は櫟本駅近くの上ツ道・街道筋。朝方は人も車も皆無、新鮮な空気が歩行意欲を増します。
丹波市町の名前は平安期にあり、丹波庄の市場として、丹波市の名が生まれた。
1
3/12 7:25
丹波市町の名前は平安期にあり、丹波庄の市場として、丹波市の名が生まれた。
古くから市場が開かれ、上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびた部分を「馬出」と呼び、主に大和高原(福住)から薪炭を乗せて下り、この地で荷を下ろし、帰りに食料品、日用品を買って帰る人馬で賑わった所。荷を運ぶ馬を繋いだ「馬つなぎ」の遺構も残されており、流通の中継地として栄えた、・・と記載。
1
3/12 7:26
古くから市場が開かれ、上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびた部分を「馬出」と呼び、主に大和高原(福住)から薪炭を乗せて下り、この地で荷を下ろし、帰りに食料品、日用品を買って帰る人馬で賑わった所。荷を運ぶ馬を繋いだ「馬つなぎ」の遺構も残されており、流通の中継地として栄えた、・・と記載。
丹波市町にくるとぐっと道幅も広くなったところに見える「陽屋根」と呼ばれる建造物。道の中央に水路があって、旅人が乗っていた馬に水を飲ませ、自分も旅の疲れを癒した名残、とか。
1
3/12 7:25
丹波市町にくるとぐっと道幅も広くなったところに見える「陽屋根」と呼ばれる建造物。道の中央に水路があって、旅人が乗っていた馬に水を飲ませ、自分も旅の疲れを癒した名残、とか。
市座神社。由緒は、丹波市の守護神、元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。7:27頃
1
3/12 7:27
市座神社。由緒は、丹波市の守護神、元々集落はここより西の奥垣内にあり、妙見社を祀っていた。7:27頃
「大和神社 オオヤマト」の大鳥居。創建は2000余年前。奈良時代には遣唐使も出発に際した安全を祈願された。
1
3/12 8:26
「大和神社 オオヤマト」の大鳥居。創建は2000余年前。奈良時代には遣唐使も出発に際した安全を祈願された。
大和神社の由緒。「戦艦大和」の守護神として祀られた。天理教の中山みき教祖の生誕地も近くにある、記載されている。
0
3/12 8:26
大和神社の由緒。「戦艦大和」の守護神として祀られた。天理教の中山みき教祖の生誕地も近くにある、記載されている。
「釜口山 長岳寺五智堂」。鎌倉時代末期建立、参詣人や街道の通行人の目印となり親しまれてきた、とのこと。
0
3/12 8:41
「釜口山 長岳寺五智堂」。鎌倉時代末期建立、参詣人や街道の通行人の目印となり親しまれてきた、とのこと。
伊射奈枝神社。伊勢神宮と殆ど同時期に創建された古い神社であり、日本武尊が東国征伐の出陣に際して、戦勝祈願をして伊勢へ出立したとされる。
0
3/12 8:50
伊射奈枝神社。伊勢神宮と殆ど同時期に創建された古い神社であり、日本武尊が東国征伐の出陣に際して、戦勝祈願をして伊勢へ出立したとされる。
道路に埋め込まれた「歴史街道ー山辺の道」の石標。西に、先月歩いたダイトレの金剛山系(二上山-本橋山-葛城山-金剛山)の山々を見ながらの歩き。ベストな山容写真を狙いながら進み、もっともっと、と・・。そのうち撮るのを忘れてしまいました。残念です。
0
3/12 9:37
道路に埋め込まれた「歴史街道ー山辺の道」の石標。西に、先月歩いたダイトレの金剛山系(二上山-本橋山-葛城山-金剛山)の山々を見ながらの歩き。ベストな山容写真を狙いながら進み、もっともっと、と・・。そのうち撮るのを忘れてしまいました。残念です。
前方後円墳では最古式の一つ。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないかとも。全長272m、3世紀後半頃の築造で、宮内庁によって倭迹迹日百襲名姫命(やまととひももそひめ)の墓に指定。「日本書紀」には、昼は人が造り、夜は神が造った、との不思議な記事が残る。(HP)
0
3/12 9:38
前方後円墳では最古式の一つ。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないかとも。全長272m、3世紀後半頃の築造で、宮内庁によって倭迹迹日百襲名姫命(やまととひももそひめ)の墓に指定。「日本書紀」には、昼は人が造り、夜は神が造った、との不思議な記事が残る。(HP)
東側から撮った三輪神社の大鳥居
0
3/12 10:03
東側から撮った三輪神社の大鳥居
大神(おおみわ)神社の境内
0
3/12 10:14
大神(おおみわ)神社の境内
卒塔婆奉納のお祓い式に立ち会えました。
0
3/12 10:19
卒塔婆奉納のお祓い式に立ち会えました。
大神神社の案内。秀麗な三輪山を神体山とする我国最古の神社で、元官幣大社、延喜式内の名神大社22社の一社。大和国一宮、全国各地に祭祀せられる大物主神の総本山・・と記載。
0
3/12 10:23
大神神社の案内。秀麗な三輪山を神体山とする我国最古の神社で、元官幣大社、延喜式内の名神大社22社の一社。大和国一宮、全国各地に祭祀せられる大物主神の総本山・・と記載。
大神神社の拝殿。寛文4年(1664年)4代将軍 徳川家綱により改建。
0
3/12 10:25
大神神社の拝殿。寛文4年(1664年)4代将軍 徳川家綱により改建。
大神神社の拝殿。写真の左は「巳の神杉」。
0
3/12 10:26
大神神社の拝殿。写真の左は「巳の神杉」。
「巳の神杉」の案内。樹齢400余年
0
3/12 10:27
「巳の神杉」の案内。樹齢400余年
三輪山 平等寺。大神神社から5分程行った所にあり、開基を聖徳太子と伝え、永遠の平和を祈願する霊場として創建された、とのこと。
0
3/12 10:33
三輪山 平等寺。大神神社から5分程行った所にあり、開基を聖徳太子と伝え、永遠の平和を祈願する霊場として創建された、とのこと。
大和側堤防にあった石標。左・いせ 右・はえ
0
3/12 10:56
大和側堤防にあった石標。左・いせ 右・はえ
「仏教伝来地」の石碑と案内板。この付近は難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉をもつ国々の使節が発着する都の外港として、重要な役割をした所。
0
3/12 10:57
「仏教伝来地」の石碑と案内板。この付近は難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉をもつ国々の使節が発着する都の外港として、重要な役割をした所。
仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地。暫く進んだ所にあったバス停で、昨夜寝る前に作ったお握りでランチタイム。
0
3/12 10:58
仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地。暫く進んだ所にあったバス停で、昨夜寝る前に作ったお握りでランチタイム。
長谷寺の山門。真言宗豊派総本山の寺。西国33箇所観音霊場の第38番札所。ぼたんでも有名。今回は山門迄。
0
3/12 12:45
長谷寺の山門。真言宗豊派総本山の寺。西国33箇所観音霊場の第38番札所。ぼたんでも有名。今回は山門迄。
国道165号線を東へ約4キロ進んだ西峠を過ぎた所にあった今日最後のコンビニで、ビバークに備え水2L購入。休憩の後、500m程進み写真にある細い階段(分りにくい)を下る。
0
3/12 14:25
国道165号線を東へ約4キロ進んだ西峠を過ぎた所にあった今日最後のコンビニで、ビバークに備え水2L購入。休憩の後、500m程進み写真にある細い階段(分りにくい)を下る。
旧旅籠の「あぶらや」の遺構。榛原萩原にあり、古くから交通の要衝として栄えた街場、明治中頃迄営んでいたことのこと。
0
3/12 14:37
旧旅籠の「あぶらや」の遺構。榛原萩原にあり、古くから交通の要衝として栄えた街場、明治中頃迄営んでいたことのこと。
札の辻の案内板。伊勢本街道と名張-松坂経由の伊勢街道「あお越道」の分岐点。江戸末期には多くの参宮者が比較的平坦なあお街道を利用するようなった、とのこと
0
3/12 14:39
札の辻の案内板。伊勢本街道と名張-松坂経由の伊勢街道「あお越道」の分岐点。江戸末期には多くの参宮者が比較的平坦なあお街道を利用するようなった、とのこと
墨坂神社。
0
3/12 14:48
墨坂神社。
案内板には「神武天皇東征のみぎり、大合戦の墨坂の地で古来より祭祀されていた六神を総称して墨坂大神という。天武天皇白鳳元年(673)に大來皇女(おおくにひめみこ)を使者として奉幣された・・と記載。
0
3/12 14:48
案内板には「神武天皇東征のみぎり、大合戦の墨坂の地で古来より祭祀されていた六神を総称して墨坂大神という。天武天皇白鳳元年(673)に大來皇女(おおくにひめみこ)を使者として奉幣された・・と記載。
弘法大師の岩清水。有料(20L/100\)と表示。西峠コンビニで購入していたので、素通り。
0
3/12 15:04
弘法大師の岩清水。有料(20L/100\)と表示。西峠コンビニで購入していたので、素通り。
16:00 高井集落。地元の数人の方から声をかけられ、中には車を止めて。「どこからきたの?、この時間に峠を越すの?、夜はどうするの?、寒いよ」等々。温かさが伝わってきました。
0
3/12 16:01
16:00 高井集落。地元の数人の方から声をかけられ、中には車を止めて。「どこからきたの?、この時間に峠を越すの?、夜はどうするの?、寒いよ」等々。温かさが伝わってきました。
登山道にあった案内板。石割峠の標高695mと伊勢本街道最高地点。峠の名は三郎岳と南の通称 石割岳との鞍部の石を割って開いた峠とも・・、と記載。
0
3/12 17:31
登山道にあった案内板。石割峠の標高695mと伊勢本街道最高地点。峠の名は三郎岳と南の通称 石割岳との鞍部の石を割って開いた峠とも・・、と記載。
このような初めて地道が続いていました。
0
3/12 17:39
このような初めて地道が続いていました。
石割峠。ビバークできそうな平坦地なく、少し行っても湿っぽく適地が見当たらく、上田口集落迄下ることに。
0
3/12 17:40
石割峠。ビバークできそうな平坦地なく、少し行っても湿っぽく適地が見当たらく、上田口集落迄下ることに。
10世帯にも満たない上田口集落に入ると、道路沿いの2m程の高台に適地があり、近くの家の人に、許可を求める。「そこは川向こうの人の土地。テント張るのは許可がいると思うが、この時間だし、耳も遠い人だしいいのと違う!」と。安易にその話を真に受け、テントを張ることにした所、20時前に警察から家宅侵入で撤去命令を受ける破目に。
0
3/12 17:53
10世帯にも満たない上田口集落に入ると、道路沿いの2m程の高台に適地があり、近くの家の人に、許可を求める。「そこは川向こうの人の土地。テント張るのは許可がいると思うが、この時間だし、耳も遠い人だしいいのと違う!」と。安易にその話を真に受け、テントを張ることにした所、20時前に警察から家宅侵入で撤去命令を受ける破目に。
【3日目/晴】昨夜、警察官立会いのもとテント撤去して、集落から離れた人も通りそうにない道から離れた箇所に適地を見つけ、テントを張る。寝たのは24時前。朝方は冷え -1℃。睡眠不足の状態で明るくなった6:15に出発。暫く写真のような道が続きます。
1
3/13 7:11
【3日目/晴】昨夜、警察官立会いのもとテント撤去して、集落から離れた人も通りそうにない道から離れた箇所に適地を見つけ、テントを張る。寝たのは24時前。朝方は冷え -1℃。睡眠不足の状態で明るくなった6:15に出発。暫く写真のような道が続きます。
黒岩集落をぬけ、のどかな田畑を過ぎると山粕峠にいつの間にか到着。江戸時代出版の書に、「田口から山粕へは一里半、山粕峠 上り十八丁、峠茶屋あり 下り十二丁急なり」と書かれているとのこと。
0
3/13 7:22
黒岩集落をぬけ、のどかな田畑を過ぎると山粕峠にいつの間にか到着。江戸時代出版の書に、「田口から山粕へは一里半、山粕峠 上り十八丁、峠茶屋あり 下り十二丁急なり」と書かれているとのこと。
8:00山粕集落着。峠に挟まれた山粕宿は江戸時代、宿場として栄え、商家などが立ち並んでいた。宿場とは、宿泊・運輸・通信の機能を備えた集落で、宿泊や食事・休憩のための施設である「旅籠」と、馬や人足、駕籠を調達したり、荷物や手紙を送ったりすることのできる「問屋」が置かれていた、と記載。
0
3/13 8:00
8:00山粕集落着。峠に挟まれた山粕宿は江戸時代、宿場として栄え、商家などが立ち並んでいた。宿場とは、宿泊・運輸・通信の機能を備えた集落で、宿泊や食事・休憩のための施設である「旅籠」と、馬や人足、駕籠を調達したり、荷物や手紙を送ったりすることのできる「問屋」が置かれていた、と記載。
鞍取峠口。トイレ建物の裏から右に進みます。睡眠不足と荷の重さ、足痛の三苦に加え、昨夜の撤去命令をうけた経緯について想起したりと、歩行スピードも上がらなく、気力低下状態がランチタイム迄続きました。
0
3/13 8:19
鞍取峠口。トイレ建物の裏から右に進みます。睡眠不足と荷の重さ、足痛の三苦に加え、昨夜の撤去命令をうけた経緯について想起したりと、歩行スピードも上がらなく、気力低下状態がランチタイム迄続きました。
鞍取峠口の案内。「・・お伊勢参りの怖いところはどこか、飼坂 櫃坂 鞍取峠 津留の渡しか宮川か」と謡われた難所の鞍取峠へは、休憩後裏手の橋を渡り、ジグザグの急坂を上がる・・と記載。
0
3/13 8:18
鞍取峠口の案内。「・・お伊勢参りの怖いところはどこか、飼坂 櫃坂 鞍取峠 津留の渡しか宮川か」と謡われた難所の鞍取峠へは、休憩後裏手の橋を渡り、ジグザグの急坂を上がる・・と記載。
垂仁天皇の時代・倭姫命が伊勢に向かう途中、この峠で強風に馬の鞍が飛はされたことから、「鞍取坂」に変化したとも、又、蘇我馬子が馬の鞍を外して一休みしたことから名付けられたとも、と記載。
0
3/13 8:39
垂仁天皇の時代・倭姫命が伊勢に向かう途中、この峠で強風に馬の鞍が飛はされたことから、「鞍取坂」に変化したとも、又、蘇我馬子が馬の鞍を外して一休みしたことから名付けられたとも、と記載。
8:40 鞍取峠 590m着。
0
3/13 8:40
8:40 鞍取峠 590m着。
御杖村 土屋原宿にあった案内図。「鞍取峠→ 御杖村・土屋原宿→ 牛峠→ 佐田峠→ 岩坂峠」。御杖村は、天照大神をお祀りする場所を求めて旅していた倭姫命が候補地の一つとして杖を置いたとの伝説が残る村、とのこと
0
3/13 9:48
御杖村 土屋原宿にあった案内図。「鞍取峠→ 御杖村・土屋原宿→ 牛峠→ 佐田峠→ 岩坂峠」。御杖村は、天照大神をお祀りする場所を求めて旅していた倭姫命が候補地の一つとして杖を置いたとの伝説が残る村、とのこと
「菅野宿」の案内。菅野の地名は倭姫命がこの地を通ったとき、疲れに耐えず井戸水を飲んだ所、心身ともにすがすがしくなったので、清野と称したとか、斎宮の酢香手姫の名前からきたと伝わっている・・記載。
0
3/13 11:00
「菅野宿」の案内。菅野の地名は倭姫命がこの地を通ったとき、疲れに耐えず井戸水を飲んだ所、心身ともにすがすがしくなったので、清野と称したとか、斎宮の酢香手姫の名前からきたと伝わっている・・記載。
牛峠を過ぎた辺りにあった三百名山「三峰山」への標識。登りたい山の一つ。少し行った所に雑貨屋があり、昼食用に”おいなりさん”をゲットし、おまけに水道水2L程頂く。お腹を満たしたせいか、明日の天気悪化を見越し、予定のビバーク地「道の駅・美杉」迄進む気力が湧く。不思議なことに足痛・荷の重みも気にならなくなっていました。
0
3/13 12:06
牛峠を過ぎた辺りにあった三百名山「三峰山」への標識。登りたい山の一つ。少し行った所に雑貨屋があり、昼食用に”おいなりさん”をゲットし、おまけに水道水2L程頂く。お腹を満たしたせいか、明日の天気悪化を見越し、予定のビバーク地「道の駅・美杉」迄進む気力が湧く。不思議なことに足痛・荷の重みも気にならなくなっていました。
「佐田峠の行悦道標」。「はせより是迄九里 是より宮川迄十二里21丁 為六十六部供養 願主 行悦」。行悦は今から約250年前に御杖村菅野に生まれた行脚僧。奈良県桜井市から三重県多気町まで本街道沿いに9基みつかっている・・と記載。
0
3/13 12:53
「佐田峠の行悦道標」。「はせより是迄九里 是より宮川迄十二里21丁 為六十六部供養 願主 行悦」。行悦は今から約250年前に御杖村菅野に生まれた行脚僧。奈良県桜井市から三重県多気町まで本街道沿いに9基みつかっている・・と記載。
正面に「大洞山 985m」の山容が望まれ、気力を後押ししてくれます。
0
3/13 12:57
正面に「大洞山 985m」の山容が望まれ、気力を後押ししてくれます。
丸山公園をすぎ、岩坂峠通過。
0
3/13 13:22
丸山公園をすぎ、岩坂峠通過。
13:34、三重県の標識、更に気力がまします。
0
3/13 13:34
13:34、三重県の標識、更に気力がまします。
常夜灯も「太一」の文字に変わります。
0
3/13 13:46
常夜灯も「太一」の文字に変わります。
道標。 左・いせみち 右・しきす。
岩坂峠を下った、ここ杉平は大和と伊勢の国境の土地。
0
3/13 13:47
道標。 左・いせみち 右・しきす。
岩坂峠を下った、ここ杉平は大和と伊勢の国境の土地。
「太一」とは古代中国の思想で天地万物の生じる根源、宇宙の本体を表すことから、日本では最高の神を表す言葉として用いられ、伊勢神宮の御用印とされた・・、と記載。
0
3/13 13:54
「太一」とは古代中国の思想で天地万物の生じる根源、宇宙の本体を表すことから、日本では最高の神を表す言葉として用いられ、伊勢神宮の御用印とされた・・、と記載。
道標(払戸)。正面・すぐいせみち(”すぐ”はまっすぐの意) 右・伊賀なばり 左・やまと はせ
0
3/13 13:57
道標(払戸)。正面・すぐいせみち(”すぐ”はまっすぐの意) 右・伊賀なばり 左・やまと はせ
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−1。”奥津”とは川の最上流の船着場・渡し場の意味で交通の要所で物産の集散地を表している、とのこと。
0
3/13 14:55
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−1。”奥津”とは川の最上流の船着場・渡し場の意味で交通の要所で物産の集散地を表している、とのこと。
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−2
0
3/13 14:55
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−2
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−3
0
3/13 14:56
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−3
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−4
0
3/13 14:57
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−4
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−5
0
3/13 14:58
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−5
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−6
0
3/13 14:58
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−6
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−7
0
3/13 15:01
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−7
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−8
0
3/13 15:02
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−8
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−9
0
3/13 15:03
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−9
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−10
0
3/13 15:04
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−10
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−11
0
3/13 15:11
奥津宿、玄関に立掛けてあったのれん−11
梅の花の香りが街道にも漂っていました。
0
3/13 15:16
梅の花の香りが街道にも漂っていました。
飼坂峠登り口手前にあった案内板。
0
3/13 15:36
飼坂峠登り口手前にあった案内板。
飼坂峠の登り口にあった案内板。・・中でも飼坂峠は険しく淋しい道で、山賊などの犠牲になった人たちを供養したと伝わる首切地蔵や腰切地蔵が残っている・・と記載。ここから本格的な地道の登りになります。
0
3/13 15:54
飼坂峠の登り口にあった案内板。・・中でも飼坂峠は険しく淋しい道で、山賊などの犠牲になった人たちを供養したと伝わる首切地蔵や腰切地蔵が残っている・・と記載。ここから本格的な地道の登りになります。
伊勢本街道で最も登り応えがあった「飼坂峠」です。
0
3/13 16:19
伊勢本街道で最も登り応えがあった「飼坂峠」です。
飼坂峠にあった茶屋跡。箒もあり、綺麗に掃除されていました。
0
3/13 16:20
飼坂峠にあった茶屋跡。箒もあり、綺麗に掃除されていました。
飼坂峠の案内板。この飼坂峠は上古より大和と伊勢を結ぶ交通の要衝として多くの人々がこの地を踏んだ。中世には北畠氏が国司として多気に居城を構え(霧山城)、南伊勢を統治していた二百数十年間京への唯一の道として重要な役割を果たしてきた・・、と記載。30分程行った所にある「道の駅・美杉」の軒下にテントを張り、未明からの雨にも濡らすことなく過ごせました。
0
3/13 16:51
飼坂峠の案内板。この飼坂峠は上古より大和と伊勢を結ぶ交通の要衝として多くの人々がこの地を踏んだ。中世には北畠氏が国司として多気に居城を構え(霧山城)、南伊勢を統治していた二百数十年間京への唯一の道として重要な役割を果たしてきた・・、と記載。30分程行った所にある「道の駅・美杉」の軒下にテントを張り、未明からの雨にも濡らすことなく過ごせました。
【4日目/未明から午前中・雨-午後曇】坂向場(さかむかえば)の案内。伊勢参宮が盛んな頃、集落から二泊三日の伊勢参りから帰ってくる多気の伊勢講の人達を、講の家族や子供たちが出迎えた所・・。と記載
0
3/14 6:45
【4日目/未明から午前中・雨-午後曇】坂向場(さかむかえば)の案内。伊勢参宮が盛んな頃、集落から二泊三日の伊勢参りから帰ってくる多気の伊勢講の人達を、講の家族や子供たちが出迎えた所・・。と記載
「上仁柿・史跡」。雨の中、幸い風がなかったので雨具ズボンと傘をさしての6:15出発となる。ひたすら舗装道を登ってきた峠手前にあった案内板。昭和51年廃村となったが、西国から来る参宮者の宿場として、茶屋の宿屋が軒を並べていたとの記載。
0
3/14 7:53
「上仁柿・史跡」。雨の中、幸い風がなかったので雨具ズボンと傘をさしての6:15出発となる。ひたすら舗装道を登ってきた峠手前にあった案内板。昭和51年廃村となったが、西国から来る参宮者の宿場として、茶屋の宿屋が軒を並べていたとの記載。
櫃坂道古坂の案内板。皇大神宮の御神霊三種の神器が倭姫命により大和から伊勢の地に移された際、通った街道。この道は御杖村・御杖神社より仁柿に通じるルートしては最短。古道の北側斜面が急峻で櫃状の地形をなしていた所から櫃坂の名がつけられたとか
0
3/14 8:23
櫃坂道古坂の案内板。皇大神宮の御神霊三種の神器が倭姫命により大和から伊勢の地に移された際、通った街道。この道は御杖村・御杖神社より仁柿に通じるルートしては最短。古道の北側斜面が急峻で櫃状の地形をなしていた所から櫃坂の名がつけられたとか
「史跡 赤松塚」。1441年、備前美作の守護 赤松満佑が起こした嘉吉(かきつき)の乱、幕府方に攻められて自刃、その息子・教康主従は北畠氏を頼りに落ちていったものの自害に追い込まれた。里人がこの主従を憐れんで祀った塚とか。
0
3/14 8:53
「史跡 赤松塚」。1441年、備前美作の守護 赤松満佑が起こした嘉吉(かきつき)の乱、幕府方に攻められて自刃、その息子・教康主従は北畠氏を頼りに落ちていったものの自害に追い込まれた。里人がこの主従を憐れんで祀った塚とか。
「招き猫のたまちゃん」。胴回り約11m、高さ約6m。この地で「わた」栽培や木綿の機織りによる地域活性化をを狙い、地元の材料(わら、竹木など)を借りて出現した(令和元年11月17日 仁柿活性化創造実行委員会)。
0
3/14 9:33
「招き猫のたまちゃん」。胴回り約11m、高さ約6m。この地で「わた」栽培や木綿の機織りによる地域活性化をを狙い、地元の材料(わら、竹木など)を借りて出現した(令和元年11月17日 仁柿活性化創造実行委員会)。
佐田峠にもあった行悦の道標。ここから30分程行き(横野集落)、本街道から少し外れた所にあったコンビニで早めのランチ休憩。雨宿りもできて助かりました。
0
3/14 9:45
佐田峠にもあった行悦の道標。ここから30分程行き(横野集落)、本街道から少し外れた所にあったコンビニで早めのランチ休憩。雨宿りもできて助かりました。
大石不動院。長谷寺以来の仏教寺院。812年(弘仁3年) 弘法大師開創と伝えられる。現在の本堂は1602年松阪城主 古田重勝が再建したとのこと。
0
3/14 11:32
大石不動院。長谷寺以来の仏教寺院。812年(弘仁3年) 弘法大師開創と伝えられる。現在の本堂は1602年松阪城主 古田重勝が再建したとのこと。
13:30 津留の渡し場跡着。普段は渡し舟ですぐ渡れたが、水が増えると度々川止めになる難所。舟は両岸に張り渡した縄を手繰りながら進めるもので、昭和4年少し上流に津留橋ができる迄存続した、とのこと。
0
3/14 13:30
13:30 津留の渡し場跡着。普段は渡し舟ですぐ渡れたが、水が増えると度々川止めになる難所。舟は両岸に張り渡した縄を手繰りながら進めるもので、昭和4年少し上流に津留橋ができる迄存続した、とのこと。
本街道途中の民家にて咲いていた珍しい桜。鮮やかな色を発散・目立たせていながら、何故か全て花弁は俯いている。後で調べたら「ヒマラヤ ヒザクラ」かと。
0
3/14 13:35
本街道途中の民家にて咲いていた珍しい桜。鮮やかな色を発散・目立たせていながら、何故か全て花弁は俯いている。後で調べたら「ヒマラヤ ヒザクラ」かと。
多気にはいると恰好から伊勢参りと察してか、「どこから来たの?、すごいね、やっぱり・・等々」、10人近い人から話しかけられる。話す機会が少なかっただけに、嬉しい思いになる。
1
3/14 13:35
多気にはいると恰好から伊勢参りと察してか、「どこから来たの?、すごいね、やっぱり・・等々」、10人近い人から話しかけられる。話す機会が少なかっただけに、嬉しい思いになる。
14:00。伊勢自動車道が見え、踏破がまじかになった実感が湧いてくる。被写体の都合で通りすぎた箇所で撮った写真。
0
3/14 14:01
14:00。伊勢自動車道が見え、踏破がまじかになった実感が湧いてくる。被写体の都合で通りすぎた箇所で撮った写真。
「伊勢三郎・物見の松」。源義経の家臣・伊勢三郎義盛が敵の軍勢を松に登って見張ったという伝説があり、現在の松は五代目とのこと。
0
3/14 14:33
「伊勢三郎・物見の松」。源義経の家臣・伊勢三郎義盛が敵の軍勢を松に登って見張ったという伝説があり、現在の松は五代目とのこと。
四疋田の常夜灯。高さ5.5m、この街道最大級のもの。江戸末期に四疋田組の三谷蒼山(1779−1841)が亡くなるとき、後世まで献灯せよとの遺言により1845年(弘化2年)に建てられた、とのこと。
0
3/14 15:14
四疋田の常夜灯。高さ5.5m、この街道最大級のもの。江戸末期に四疋田組の三谷蒼山(1779−1841)が亡くなるとき、後世まで献灯せよとの遺言により1845年(弘化2年)に建てられた、とのこと。
本街道から約1.5km外れた箇所にある「きららの森公園」の標識。本日のビバーク地。90分程前に声を掛けてくださった方から聞いた相可の食料品店で、今夜の追加食材と明日の行動食を買い足しました。
0
3/14 17:46
本街道から約1.5km外れた箇所にある「きららの森公園」の標識。本日のビバーク地。90分程前に声を掛けてくださった方から聞いた相可の食料品店で、今夜の追加食材と明日の行動食を買い足しました。
【4日目/晴れ】ビバーク地5:45出発。「伏拝坂の案内板」、文政10年(1827年) 伊勢参りの旅人がここ迄来て、残りの距離を尋ねた所、「三里山道、五里畷」ときき、これから先の難儀を思い、参宮を諦め、東の空を伏し、拝んで残念そうに帰ったという伝説の場所。
0
3/15 6:13
【4日目/晴れ】ビバーク地5:45出発。「伏拝坂の案内板」、文政10年(1827年) 伊勢参りの旅人がここ迄来て、残りの距離を尋ねた所、「三里山道、五里畷」ときき、これから先の難儀を思い、参宮を諦め、東の空を伏し、拝んで残念そうに帰ったという伝説の場所。
伊勢本街道(初瀬本街道)の案内板。初瀬から距離的は最短であるが急な山坂が多く、歩行のし易い青山峠越え(榛原・三本松・伊賀・名張・青山峠を越え伊勢に入る)の方が親しまれたと云われている、と記載。
0
3/15 6:57
伊勢本街道(初瀬本街道)の案内板。初瀬から距離的は最短であるが急な山坂が多く、歩行のし易い青山峠越え(榛原・三本松・伊賀・名張・青山峠を越え伊勢に入る)の方が親しまれたと云われている、と記載。
新宮迄162kmの道標。熊野本宮向けの伊勢街道の道標。つい気になり写真を撮りました。
0
3/15 8:25
新宮迄162kmの道標。熊野本宮向けの伊勢街道の道標。つい気になり写真を撮りました。
渡会橋。案内板によれば、昔、宮川には橋がなく、二ヶ所の渡し場(桜の渡しと柳の渡し)で人や物の全てを運んだ。参宮が盛んだった江戸時代の頃、掛茶屋が軒を並べて賑わっていたと。明治30年(1897)参宮鉄道の開通でその役割を終え、明治44年(1911)、度会橋の架橋で終止符を打ったとのこと。宮川に架かる写真の度会橋を渡れば、伊勢本街道も約7kmを残すのみ。
0
3/15 8:57
渡会橋。案内板によれば、昔、宮川には橋がなく、二ヶ所の渡し場(桜の渡しと柳の渡し)で人や物の全てを運んだ。参宮が盛んだった江戸時代の頃、掛茶屋が軒を並べて賑わっていたと。明治30年(1897)参宮鉄道の開通でその役割を終え、明治44年(1911)、度会橋の架橋で終止符を打ったとのこと。宮川に架かる写真の度会橋を渡れば、伊勢本街道も約7kmを残すのみ。
「筋向橋」の案内板。伊勢神宮と関東・中部方面からの参宮道、津・小俣などを通る伊勢街道は、この筋向橋で一つになる・・、と記載。
0
3/15 9:24
「筋向橋」の案内板。伊勢神宮と関東・中部方面からの参宮道、津・小俣などを通る伊勢街道は、この筋向橋で一つになる・・、と記載。
萬金丹の店。江戸時代前期に始まり、伊勢参宮と共に全国にその名を知られ、300年以上に亘って家庭や旅行の伴として親しまれてきた。現在の店舗は、江戸期伊勢に独特の宮大工による「切妻造り」の代表的建築物として昔を今に伝えている、との案内板に記載。
0
3/15 9:33
萬金丹の店。江戸時代前期に始まり、伊勢参宮と共に全国にその名を知られ、300年以上に亘って家庭や旅行の伴として親しまれてきた。現在の店舗は、江戸期伊勢に独特の宮大工による「切妻造り」の代表的建築物として昔を今に伝えている、との案内板に記載。
「お木曳きと山田」の案内板。伊勢神宮は20年毎に御宮を遷しかえる式年遷宮という行事があり、1300年程前の持統天皇以来(690年)現在まで営々と伝えられている・・と。驚くのは、式年遷宮に向け200年計画で檜の植林を神宮所有の森で続けられている、ということ。
0
3/15 9:39
「お木曳きと山田」の案内板。伊勢神宮は20年毎に御宮を遷しかえる式年遷宮という行事があり、1300年程前の持統天皇以来(690年)現在まで営々と伝えられている・・と。驚くのは、式年遷宮に向け200年計画で檜の植林を神宮所有の森で続けられている、ということ。
9:40。「外宮」案内板などによると、豊受大神宮(とようけのおおみかみ)は外宮と呼ばれ豊受大御神をお祀りしている。
0
3/15 9:41
9:40。「外宮」案内板などによると、豊受大神宮(とようけのおおみかみ)は外宮と呼ばれ豊受大御神をお祀りしている。
外宮の境内
0
3/15 9:52
外宮の境内
案内板。豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みを与えくださる産業の守護神。約1500年前の第21代雄略天皇22年に丹波の国(今の京都府北部)より、この地にお迎えしたと言い伝えられている、とのこと。
0
3/15 9:56
案内板。豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みを与えくださる産業の守護神。約1500年前の第21代雄略天皇22年に丹波の国(今の京都府北部)より、この地にお迎えしたと言い伝えられている、とのこと。
参宮街道の案内板。文政13年(1830年)の「おかげ参り」には全盛期を迎え、500万人近くの参詣者があったという。ザックを預けるため宇治山田駅経由で内宮に向かう。計画では最終地だった朝熊ケ岳登山を諦め、内宮からはバス利用、と段々安易な方向に流れていく自分を抑えようがありませんでした。
0
3/15 10:40
参宮街道の案内板。文政13年(1830年)の「おかげ参り」には全盛期を迎え、500万人近くの参詣者があったという。ザックを預けるため宇治山田駅経由で内宮に向かう。計画では最終地だった朝熊ケ岳登山を諦め、内宮からはバス利用、と段々安易な方向に流れていく自分を抑えようがありませんでした。
「伊勢古市参宮街道」の案内板。全国津々浦々から伊勢参りに向かった「おかげ参り」は、多い時には半年間に約458万人の参詣者があったと記録。外宮から内宮に向かう古市街道の古市は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊郭があり、全盛期には妓楼70軒、遊女1000人を数えた、と記載。
0
3/15 10:40
「伊勢古市参宮街道」の案内板。全国津々浦々から伊勢参りに向かった「おかげ参り」は、多い時には半年間に約458万人の参詣者があったと記録。外宮から内宮に向かう古市街道の古市は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊郭があり、全盛期には妓楼70軒、遊女1000人を数えた、と記載。
内宮に向かう途中から正面に見えた「朝熊ケ岳」。計画では江戸時代の”お伊勢参り”の人達同様とはいかず、金剛証寺お参りと頂上からの展望は、ギブアップ。
0
3/15 11:03
内宮に向かう途中から正面に見えた「朝熊ケ岳」。計画では江戸時代の”お伊勢参り”の人達同様とはいかず、金剛証寺お参りと頂上からの展望は、ギブアップ。
「おかげ横丁」。日曜と重なったこともあり、新型コロナウイルスの影響なしの如く、人込みで混雑していました。写真を撮り早々に内宮に向かう。
0
3/15 11:31
「おかげ横丁」。日曜と重なったこともあり、新型コロナウイルスの影響なしの如く、人込みで混雑していました。写真を撮り早々に内宮に向かう。
11:40 内宮の山門着。初めての参詣です。伊勢神宮内宮は、正式には皇大神宮といい、日本の大御親神と崇められる皇祖・天照大御神が祀られ、「日本書紀」によると、第11代垂仁天皇の26年(約2000年前)、倭姫命が天照大御神の御鎮座の地を求めて諸国を巡ったのち、この伊勢の地に鎮座された、とのこと。
0
3/15 11:40
11:40 内宮の山門着。初めての参詣です。伊勢神宮内宮は、正式には皇大神宮といい、日本の大御親神と崇められる皇祖・天照大御神が祀られ、「日本書紀」によると、第11代垂仁天皇の26年(約2000年前)、倭姫命が天照大御神の御鎮座の地を求めて諸国を巡ったのち、この伊勢の地に鎮座された、とのこと。
案内板。天照大御神は皇室の御祖神であり、歴代天皇が厚くご崇敬になられ、私たちの総氏神でもある。約2000年前の崇神天皇の御代に各地を巡られたのち、この五十鈴川のほとりにお鎮まりになった、との記載。
0
3/15 11:41
案内板。天照大御神は皇室の御祖神であり、歴代天皇が厚くご崇敬になられ、私たちの総氏神でもある。約2000年前の崇神天皇の御代に各地を巡られたのち、この五十鈴川のほとりにお鎮まりになった、との記載。
日本人の心のふるさと「お伊勢さん」の名で親しまれている神宮は、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心に十四所の別宮と百九所の摂社、末社、所有社からなりたっている・・。と記載。
0
3/15 11:52
日本人の心のふるさと「お伊勢さん」の名で親しまれている神宮は、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心に十四所の別宮と百九所の摂社、末社、所有社からなりたっている・・。と記載。
御正殿。南に面して建てられ、唯一神明造りと呼ばれる建築様式で一般神社の神明造りと区別して呼ばれている(HP)。案内板によれば、20年に一度、御正殿、御門・御垣などの建物を新しくする式年遷宮は、天武天皇の遺言により、次の持統天皇4年(690)に第1回が行われて以来、現在まで1300年間受け継がれ、平成25年で62回を迎えたとのこと。
0
3/15 11:56
御正殿。南に面して建てられ、唯一神明造りと呼ばれる建築様式で一般神社の神明造りと区別して呼ばれている(HP)。案内板によれば、20年に一度、御正殿、御門・御垣などの建物を新しくする式年遷宮は、天武天皇の遺言により、次の持統天皇4年(690)に第1回が行われて以来、現在まで1300年間受け継がれ、平成25年で62回を迎えたとのこと。
よく見て歩き通しましたね。日本人のその時を生きて、騒動を起こした人達の碑。
温かく声かけしてくれた今の人。山では自然が支配するが地では『法』が支配する。テント撤去体験ビックリ。
のれんの町、奥津宿もいいね。でもくぐらないでテント泊。少年の目で見た伊勢参りですね。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する