大文字山・疏水観光船
- GPS
- 04:49
- 距離
- 13.3km
- 登り
- 656m
- 下り
- 584m
コースタイム
- 山行
- 4:28
- 休憩
- 1:44
- 合計
- 6:12
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
京阪京津線大谷駅まで徒歩 |
コース状況/ 危険箇所等 |
概ね問題なし 神明山の西遥拝所からは荒れている |
写真
感想
山科駅前の枝垂桜は見ごろを迎え空は晴れてコントラストが美しい。JRの高架を潜り一本道を毘沙門堂へと進み疏水に架かる安朱橋に達すると桜のピンクと菜の花の黄色がコラボして素晴らしい。夕方にはこの下を船で通る。例年なら多くの観光客でごった返す参道も今日は静か、5分咲きの桜を静かに愛でる至福のひと時を味わえた。毘沙門堂の石段もガラガラで境内に入ると此処も5分咲きの桜が美しい。西にある山科聖天に立ち寄り安祥寺川を遡り後山階陵に到る。仁明天皇女御 尊称太皇太后の藤原順子(809〜71)が葬られている。左大臣藤原冬嗣(775〜826)の娘で単なる女御ながら後に大皇太后と尊称されたことから“陵”と呼ばれているようだ。
この陵の裏手から尾根に取付くと直ぐに送電線二組が東西に進み一寸した展望地となっていた。ミツバツツジが咲き始めた稜線を進みP400に到ると“経塚山”と山頂標識が掲げられていた。樹林帯で展望はなく90度進行方向を変えて西に進んだ。再び90度北に曲がるが南方向にも道が付いていた。地形図に描かれていない林道が横切り西から尾根が近づいて来ると七福思案処への分岐点だった。また林道が交差し進んで行くと大文字の東稜線に達した。朝方まで降っていた雨で足元は泥濘み歩き辛い。
大文字山(465m)山頂は異様なほど大勢の人で埋められ衝撃だった。最近の山行でこんなに人を見たのは何年振りだろう。コロナウィルスで街の中は危険だが山は完全オープンエアーで安全と思っているからだろうか。見通しは今一で京都市内の山だけは問題ない程度だった。昼食休憩を取り、来た道を引き返し七福思案処への分岐を折れた。計画は林道を行くつもりだったがすっかり忘れていて稜線道をそのまま辿った。P326への登路がありピークに達すると“大日山”の表示があり1山儲けた。
展望はなく直ぐに通過し東尾根に下った。歩こうとしていた林道の果てに繋がっている道で送電線沿いの水平道に到った。地形図に発電所マークのある所は送電鉄塔の電線がここで途切れているが発電所の雰囲気はない。地図マークは正しくは「発電所等」で変電所も含まれるようだが変電設備とも思えない処だった。少し進むと七福思案処で2組思案しているようでお休み中だった。神明山(218m)に立ち寄り、稜線を先に進むと立派な鳥居が現れ、神社かと思ったがさにあらず、伊勢神宮の遥拝所だった。こんな立派な鳥居のある遥拝所は初めて見た。更に進むと何のための石か分からないが「九条家」と刻まれた石を発見した。怪しくなったが道は続き民家に近づいて来て私有地に下りてしまいそうでトラバースして日向大神宮に下り立った。
神宮の外宮・内宮を参拝し日向橋に到ると蹴上の疏水エリアで方向転換する観光船の姿を見ることができた。インクラインや発電所の導水管、対岸の浄水場の躑躅の木を見て今年は一般公開はどうなるのだろうかと気を揉んだ。疏水主任技師を務めた田辺朔朗の像を見て散策していると本願寺水道の施設を発見した。何と東本願寺の渉成園や本願寺の堀に水を引いていたそうだ。集合10分前に御所水道ポンプ室前の乗船場所に集まり15:00からテント内で疏水のビデオを観賞し、歴史を学び、御所水道ポンプ室の案内を受けた。
琵琶湖疏水は明治18年明治維新後寂れていた京都の街を活気づけようと第3代京都府知事の北垣国道が若き技師田辺朔朗を招聘し明治23年(1890)に完成した。琵琶湖の水を京都に引き飲料・農業党に利用、舟運の道としてインクラインを利用して岡崎まで繋げ物流の革命を起こした。また蹴上の高低差を利用して水力発電がおこなわれ日本初の市内電車の動力となった。
船に乗り込むと流れに逆らい全速力で第3トンネルに突っ込んだ。下り便は水流に任せて走るのでゆっくりだが登り便は凄い勢いで波を立てて進む。トンネンルの入口には扁額が掲げられ西口が陽刻、東口が陰刻で明治の著名人の揮毫による。長さ850mの第3トンネルを抜けると第11号橋が架かり日本初のコンクリート橋であると案内があった。第2トンネルは124mで最も短い。朱塗りの橋は本圀寺正嫡橋で日蓮所縁の寺に続いている。毘沙門堂に行く時に通った安朱橋を潜ると桜と菜の花のコラボを再び見ることができた。
諸羽トンネルは昭和45年にできた新しいトンネルで湖西線建設の用地を確保すべく疏水を地下に追いやったそうでトンネル直前で大きく方向を変えた。出た処には舟溜まりがあり舟運時代の船頭が休息したと云われる。軈て最長の第1トンネルに突入した。2,436mの長さがあり難工事で2本竪坑が掘られ山上からも掘り進めたと云う。因みにこの方法は今でもあちこちで行われており疏水は先駆的な後方だった。第1トンネルを抜けると大津閘門で下船、最後に大津閘門の案内があった。琵琶湖と疏水の水位差1.5mをパナマ運河のように閘門を順に閉じ船を下ろしていたという。
下船後は、旧東海道本線の旧線跡を見学し大阪の関を越えた。先ずは国道1号線が京阪京津線を乗越す処にある橋台跡、レンガ積みで今は松浦組の敷地内で擁壁として利用されている。その延長線上に旧逢坂山トンネルの東口が残され鉄道記念物となっている。当時日本人の手だけで掘った最初のトンネルで価値がある。西口から先は名神高速道路にその路盤のすべてを奪われ現奈良線まで遺跡は残っていない。逢坂の関を越え大谷駅に達すると駅近くに蝉丸神社があった。蝉丸神社はこれだけではなく関蝉丸神社上社、同下社もあった。蝉丸と云えば百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」で有名
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