白馬岳という山がある。
この山の名前については、「しろうまだけ」と読み、その由来は、春になると出てくる馬の形をした岩の模様が、麓の農民たちにとって田植えの時期の目安となっていたことから、「代掻き馬」転じて「代馬岳」と呼ばれていたものがいつしか「白馬岳」と書かれるようになった……というのが定説である。
しかしこの定説は実際のところ、疑い無い事実と言い切れるほど確実なものではない。
この山の名前については、「しろうまだけ」と読み、その由来は、春になると出てくる馬の形をした岩の模様が、麓の農民たちにとって田植えの時期の目安となっていたことから、「代掻き馬」転じて「代馬岳」と呼ばれていたものがいつしか「白馬岳」と書かれるようになった……というのが定説である。
しかしこの定説は実際のところ、疑い無い事実と言い切れるほど確実なものではない。
1.定説への疑問符
この、いわば「代掻き馬由来説」に疑問を呈するのは私が初めてというわけではもちろんなく、すでに複数の人が疑問を表明している。
『黎明の北アルプス』(三井嘉雄、岳書房、1983年)の中の「白馬岳という山名」という節では次のように書かれている。
『黎明の北アルプス』(三井嘉雄、岳書房、1983年)の中の「白馬岳という山名」という節では次のように書かれている。
(リンク先は国会図書館データベースの書誌情報。以下書籍からの引用については同じ)
その説〔代掻き馬由来説のこと;引用者注〕を裏付ける資料をさがしてみたのだが、全くおかしなことなのだが、雪形から代馬岳といわれるようになったはずの白馬岳は、そういう解釈のできる文献には一つも出会うことがなく、反対に、それらを否定する材料ばかりが集まってしまうのであった。
(「白馬岳という山名」p144より)
その説〔代掻き馬由来説のこと;引用者注〕を裏付ける資料をさがしてみたのだが、全くおかしなことなのだが、雪形から代馬岳といわれるようになったはずの白馬岳は、そういう解釈のできる文献には一つも出会うことがなく、反対に、それらを否定する材料ばかりが集まってしまうのであった。
(「白馬岳という山名」p144より)
この一文に続けて、多くの文献を挙げて代掻き馬由来説が「怪しい」ことを詳細に述べている。はっきり言って、この本を読んで貰えれば、拙文を読んでいただく必要は無いぐらいだ。
他にも詳しい紹介は略すが、1948〜1952年(昭和23〜27)に、『山岳』誌上で掲載された中島正文氏による論考『白馬岳志雑攷』においても、「白馬岳なる山名は果して、代掻き馬より発祥したものなりや否や、少なからず疑問を生じ来るものである。」(旧字体は新字体に置き換え、以下同様)と述べている(『北アルプスの史的研究』(桂書房、1986年)所収。引用は同書p.292より)。
「生の証言」もある。
以下に紹介するのは、地元白馬村で生まれ育った、ペンション経営者の方のホームページからの引用だ。
他にも詳しい紹介は略すが、1948〜1952年(昭和23〜27)に、『山岳』誌上で掲載された中島正文氏による論考『白馬岳志雑攷』においても、「白馬岳なる山名は果して、代掻き馬より発祥したものなりや否や、少なからず疑問を生じ来るものである。」(旧字体は新字体に置き換え、以下同様)と述べている(『北アルプスの史的研究』(桂書房、1986年)所収。引用は同書p.292より)。
「生の証言」もある。
以下に紹介するのは、地元白馬村で生まれ育った、ペンション経営者の方のホームページからの引用だ。
私は生まれも育ちも地元で、かつては田圃も作っていたのだが、この雪形(岩形)を見て代掻きの時期を判断したことなど一度だって無かったし、物心ついてからも相当の期間そんな話は聞いたことが無かった。
なにしろこの雪形(岩形)は厳冬期を除けばいつでも観察出来る(3月〜7月)から、これで代掻きの時期なんか判断出来る訳がないのだ。
誰がいつでっち上げたものか、この白馬(シロウマ)説はちょっと物知りを気取る人の間では有名だけれど、根拠も出典も不明な説を認める訳にはいかない。私の認識は物心ついた時から白馬(ハクバ)だ。
なにしろこの雪形(岩形)は厳冬期を除けばいつでも観察出来る(3月〜7月)から、これで代掻きの時期なんか判断出来る訳がないのだ。
誰がいつでっち上げたものか、この白馬(シロウマ)説はちょっと物知りを気取る人の間では有名だけれど、根拠も出典も不明な説を認める訳にはいかない。私の認識は物心ついた時から白馬(ハクバ)だ。
他にもある。
白馬で生まれ育ったガイド仲間の人たちと話をしていると、白馬岳は「はくばだけ」と呼んでおり、問いただしてみると
「おらぁ子供んころから『はくばだけ』と呼んでただ。『しろうまだけ』なんて呼んだことぁねぇだ。」
「だいたいあの白馬岳の横にある雪形を『しろかきうま』なんて呼んでるけどせぇ、おらぁたちはあんなものを『しろかきうま』なんて呼んだこたぁねぇだ。あん雪形は4月っころから出てて、そん頃は白馬の田んぼは雪のしたせぇ。田植えの準備なんかできっこねぇだ。」
確かにおっしゃる通り。白馬で田植えをするのは5月下旬〜6月にかけて。代かきはその前からするものの、4月からするなんてことはない。地元で「代かき馬」の雪形と呼ばれてるのは、白馬岳よりさらに北側(山麓から見て右側)にある白馬大池付近に出てくる「仔馬」の雪形のことを指すらしい。
「おらぁ子供んころから『はくばだけ』と呼んでただ。『しろうまだけ』なんて呼んだことぁねぇだ。」
「だいたいあの白馬岳の横にある雪形を『しろかきうま』なんて呼んでるけどせぇ、おらぁたちはあんなものを『しろかきうま』なんて呼んだこたぁねぇだ。あん雪形は4月っころから出てて、そん頃は白馬の田んぼは雪のしたせぇ。田植えの準備なんかできっこねぇだ。」
確かにおっしゃる通り。白馬で田植えをするのは5月下旬〜6月にかけて。代かきはその前からするものの、4月からするなんてことはない。地元で「代かき馬」の雪形と呼ばれてるのは、白馬岳よりさらに北側(山麓から見て右側)にある白馬大池付近に出てくる「仔馬」の雪形のことを指すらしい。
次に紹介するのは、白馬を中心に活動するプロスキーヤー/山岳ガイド・松澤幸靖氏のFacebook公開エントリー。
ヤマノートの仕様でリンクが貼れないようなので、以下のURLを直接参照いただきたい。
https://www.facebook.com/yukiyasu.matsuzawa/posts/1153516074736029?__tn__=C-R
ヤマノートの仕様でリンクが貼れないようなので、以下のURLを直接参照いただきたい。
https://www.facebook.com/yukiyasu.matsuzawa/posts/1153516074736029?__tn__=C-R
白馬岳の山の呼び方については「しろうまだけ」が正しいと言う説。それはこの山の名前が元々は「代馬岳」だったからと言われている。
しかし古い文献をいくつも見てはいるが、「代馬岳」は残念ながらどこにも出てこない。
(中略)
この〔白馬岳の;引用者注〕読み方をしろうまと呼んだか、はくばと呼んだかはわからない。しかし、代馬岳→白馬岳になったのだからしろうまと呼ぶのが正しいと言うのは、あたかも「しろうま」と呼ばせたいが為の、つくり話としか思えないのだが......。
ちなみに稲を植える季節を見極める代掻きの時期を教えてくれる本当の代掻き馬は小蓮華山に出る仔馬のことです。白馬岳の馬は冬から出ていて何の参考にもなりません。
しかし古い文献をいくつも見てはいるが、「代馬岳」は残念ながらどこにも出てこない。
(中略)
この〔白馬岳の;引用者注〕読み方をしろうまと呼んだか、はくばと呼んだかはわからない。しかし、代馬岳→白馬岳になったのだからしろうまと呼ぶのが正しいと言うのは、あたかも「しろうま」と呼ばせたいが為の、つくり話としか思えないのだが......。
ちなみに稲を植える季節を見極める代掻きの時期を教えてくれる本当の代掻き馬は小蓮華山に出る仔馬のことです。白馬岳の馬は冬から出ていて何の参考にもなりません。
このエントリーに添付されている古地図は非常に興味深いものなので、後でまた紹介したい。
2.文献調査
では実際のところどうなのか。各種文献・史料において「現在白馬岳と呼ばれている北アルプス2932m峰」が、どのような表記と読みで記述されてきたのか。また山名の由来についてはいつまで遡って確認することができるのか、を調査してみた。発見できた文献を時系列順に紹介したい。
その前に、白馬岳の古名について触れておきたい。現在白馬岳と呼ばれている山は、少なくとも江戸時代中期頃までは、信州からは「西山」もしくは「嶽(ダケ)」と呼ばれていた。越中からは「上駒ケ岳」越後からは「大蓮華岳」と呼ばれていた。現在の「白馬岳」につながる名前で呼ばれるようになったのは、江戸後期以降〜明治期であり、文献・史料調査もその時期を中心として行った。
その前に、白馬岳の古名について触れておきたい。現在白馬岳と呼ばれている山は、少なくとも江戸時代中期頃までは、信州からは「西山」もしくは「嶽(ダケ)」と呼ばれていた。越中からは「上駒ケ岳」越後からは「大蓮華岳」と呼ばれていた。現在の「白馬岳」につながる名前で呼ばれるようになったのは、江戸後期以降〜明治期であり、文献・史料調査もその時期を中心として行った。
(1)1824年(文政7年) 千国・塩島境界争い時に作製された絵図 「白馬嶽」表記
『秘録・北アルプス物語』(朝日新聞松本支局 編、郷土出版社、1982.7)には以下のような記述がある。
白馬岳の文字が初めて現れたのは文政七年(1824)。ふもとの千国、塩島両村の間で起きた境界論争の際に作られた絵図の中に記載されているのが最も古い。
(「地名の変遷」(一)白馬岳 p.262より)
(「地名の変遷」(一)白馬岳 p.262より)
この絵図の現物は直接確認できていないが、先に紹介した松澤幸靖氏のFacebook公開エントリーに添付されている絵図がこれに該当する。いまいちどURLを掲載するのでご確認いただきたい(ヤマノートの仕様によりリンク不可のためURLのみ掲載)。
https://www.facebook.com/yukiyasu.matsuzawa/posts/1153516074736029?__tn__=C-R
現物は未確認であるものの、とりあえずこれが「白馬岳」の初出ということになる。読み方については記述されていない。
https://www.facebook.com/yukiyasu.matsuzawa/posts/1153516074736029?__tn__=C-R
現物は未確認であるものの、とりあえずこれが「白馬岳」の初出ということになる。読み方については記述されていない。
(2)1880年(明治13年)信濃国地誌略字引 「白馬」表記・「ハクバ」読み
1880年(明治13年)に、長野県の資料として『信濃国地誌略』(以下『地誌略』)が編纂された。『信濃国地誌略字引』はこれに付随して作製された資料で、漢文で記された『地誌略』を子供にも読みやいようにと、全文を分かち書きして振り仮名を振ったものである。
以下の引用は、その下巻の冒頭にある「安曇郡(アスミコホリ)」の章からの引用。()内は振り仮名である。
以下の引用は、その下巻の冒頭にある「安曇郡(アスミコホリ)」の章からの引用。()内は振り仮名である。
○安曇郡(アスミコホリ)
…神城村(カミシロムラ) 天狗嶽(テングダケ) 背(ハイ)に峙(ソバダ)チ 鹿島山(カシマヤマ) 箙嶽(ユビラダケ) 楠川入山(クスカハイリヤマ) 藥師(ヤクシ) 白馬(ハクバ) 諸嶽(ショガク) 交(マジハ)リ…
(「安曇郡」(コマ番号31)より)
…神城村(カミシロムラ) 天狗嶽(テングダケ) 背(ハイ)に峙(ソバダ)チ 鹿島山(カシマヤマ) 箙嶽(ユビラダケ) 楠川入山(クスカハイリヤマ) 藥師(ヤクシ) 白馬(ハクバ) 諸嶽(ショガク) 交(マジハ)リ…
(「安曇郡」(コマ番号31)より)
このように、「白馬」に「ハクバ」の読み仮名が振られている。「白馬」であって「白馬岳(嶽)」ではないが、その直後に「諸嶽交リ」とあるので、明らかに山名としての白馬を指していると見て良いだろう。現在見つかっている中で、白馬の読みについて触れている最も古い史料ということになる。
(3)1883年(明治16年)北安曇野郡長・窪田畔夫と大町小学校長・渡辺敏らの登山記 「白馬」表記
『新日本山岳誌』(日本山岳会 編著、ナカニシヤ出版、2005年)によると以下のようにある。
由来にいう雪形説からすれば、表記は「代馬」でなくてはならないが、明治以来の文字は「白馬」である。その最初と思われるものに、一八八三年夏の、時の〔北安曇郡;引用者注〕郡長窪田畔夫と大町小学校渡辺敏の「白馬登山記」〔白馬に傍点;引用者注〕がある。
(「白馬岳」の項 p.877より)
(「白馬岳」の項 p.877より)
この「窪田・渡辺登山記」については、この他にも言及している文献は多いものの、掲載している書籍が不明で現物確認ができていない。実在を前提とするなら、「登山者による山名記載」としては現状最も古いものと言えるだろう。
(4)1893年(明治26年)一等三角点選定 「白馬嶽」表記・「シロムマダケ」読み
日本陸軍参謀本部陸地測量部による、白馬岳(と現在呼ばれている山頂)への一等三角点の設置に際して、その三角点の読みを「シロムマダケ」とした、と唱えている文献や証言がある。例えば、前出の『黎明の北アルプス』にはこうある。
(略)参謀本部陸地測量部では、白馬岳に一等三角点を設置することにしたのは明治二十六年であった。(略)この三角点の点名は白馬岳であって、測量記録にはシロムマダケとふりがなしてある。
(「白馬岳という山名」p.146より)
(「白馬岳という山名」p.146より)
しかし、当時作られた測量関係の文書を読んでも、「シロムマダケ」あるいは「シロウマダケ」という読みをしたという証拠は確認できない。
まず点の記を国土地理院から取り寄せたが、それによると、一等三角点「白馬嶽」は選定が1893年(明治26年)、埋低が1894年(明治27年)、観測が1897年(明治30年)とある。白馬嶽の読みについての記載は無い。他に参照可能な資料として、三角点測量成果表があるが、こちらにもやはり読みの記載は無い。
また、実際に作られた地形図は、この前後の時期のものでは以下の版がある。
・五万分の一地形図「白馬嶽」1912年
・五万分の一地形図「白馬嶽」1913年仮製版
・五万分の一地形図「白馬嶽」1915年
それぞれ国会図書館で現物参照してみたが、いずれの地図にも「白馬嶽」の読みの記載は無かった。なお漢字表記については点の記も含めて一貫して「白馬嶽」である。
『黎明の北アルプス』の著者が指す「測量記録」とは何を指すのか不明である。
裏は取れていないが、仮に陸地測量部が白馬をシロムマと読んだのが事実とすれば、これが陸地測量部によるオリジナルな読み方だったのか、それとも地元民から聞いた通りの正しい読みだったのかはわからないが、シロウマダケ読みに強力な権威を与えたことは間違い無いだろう。なにしろ「お上」(それも軍の組織)による命名である、おいそれと「反論」などできるものではない。
まず点の記を国土地理院から取り寄せたが、それによると、一等三角点「白馬嶽」は選定が1893年(明治26年)、埋低が1894年(明治27年)、観測が1897年(明治30年)とある。白馬嶽の読みについての記載は無い。他に参照可能な資料として、三角点測量成果表があるが、こちらにもやはり読みの記載は無い。
また、実際に作られた地形図は、この前後の時期のものでは以下の版がある。
・五万分の一地形図「白馬嶽」1912年
・五万分の一地形図「白馬嶽」1913年仮製版
・五万分の一地形図「白馬嶽」1915年
それぞれ国会図書館で現物参照してみたが、いずれの地図にも「白馬嶽」の読みの記載は無かった。なお漢字表記については点の記も含めて一貫して「白馬嶽」である。
『黎明の北アルプス』の著者が指す「測量記録」とは何を指すのか不明である。
裏は取れていないが、仮に陸地測量部が白馬をシロムマと読んだのが事実とすれば、これが陸地測量部によるオリジナルな読み方だったのか、それとも地元民から聞いた通りの正しい読みだったのかはわからないが、シロウマダケ読みに強力な権威を与えたことは間違い無いだろう。なにしろ「お上」(それも軍の組織)による命名である、おいそれと「反論」などできるものではない。
(5)1899年(明治32年)? 河野齢蔵の登山記 「白馬岳」表記
1898年(明治31年)に白馬岳に登山した河野齢蔵による登山記。
(略)
日を経ること僅かに三日時に冒険者となり、時に絶域の旅客となり、天地の偉観に驚き、乾坤の極なきを嘆じ奇草異木に造化の秘を探り、怪禽異獣の跡に覆載の奥を窺ふ、険峻我を悩まし霊泉我を慰し、自ら人間にあらざるを疑ひ、羽化登仙せんかと怖しむ。天候の変、気象万千、ここに天賚の厚きを謝し、併せて同志の士に示す云爾。(終)
(「白馬岳に登るの記」(コマ番号32〜)より。旧字体は一部除き新字体に置き換え)
日を経ること僅かに三日時に冒険者となり、時に絶域の旅客となり、天地の偉観に驚き、乾坤の極なきを嘆じ奇草異木に造化の秘を探り、怪禽異獣の跡に覆載の奥を窺ふ、険峻我を悩まし霊泉我を慰し、自ら人間にあらざるを疑ひ、羽化登仙せんかと怖しむ。天候の変、気象万千、ここに天賚の厚きを謝し、併せて同志の士に示す云爾。(終)
(「白馬岳に登るの記」(コマ番号32〜)より。旧字体は一部除き新字体に置き換え)
章タイトルにもある通り、文中を通して「白馬岳」表記が採用されている。読みに関する記述、山名由来に関する記述は無い。
なぜこの結びの部分を引用したかというと、この文章が「いつ書かれたか」が重要になるからである。『黎明の北アルプス』によれば、河野齢造がこの登山記を初めて発表したのは登山の翌年、1899年(明治32年)であるとしているがその裏は取れていない。
現在読める、この登山記を収録した書籍『白馬岳』(北安曇郡教育会)が出版されたのは登山から15年後の1913年である。つまりこの登山記は、1898年から1913年の間のどこかで書かれたもの、ということになる。となると、一つの可能性として、登山した時期には「代馬岳」であったのだが、出版される1913年頃には「白馬岳」表記が定着していたため、文章としてのわかりやすさを優先してあえて「白馬岳」表記で書いたのだ、という可能性が残る。しかし1898年の登山直後に書かれたならば、その頃すでに(代馬岳ではなく)白馬岳と表記していたのだという証拠になる。
そこでこの結びの文章である。この文章から伝わってくる、まだ興奮さめやらぬ感触、特に「天候の変、気象万千、ここに天賚の厚きを謝し、併せて同志の士に示す云爾。」という最後の一文は、「下山直後」かそれに近い時期に書かれたものであることを示唆すると思うのだが、どうだろうか。
ここでは、『黎明』の記述に従って、この登山記が書かれたのは1899年であるとしたい。
なぜこの結びの部分を引用したかというと、この文章が「いつ書かれたか」が重要になるからである。『黎明の北アルプス』によれば、河野齢造がこの登山記を初めて発表したのは登山の翌年、1899年(明治32年)であるとしているがその裏は取れていない。
現在読める、この登山記を収録した書籍『白馬岳』(北安曇郡教育会)が出版されたのは登山から15年後の1913年である。つまりこの登山記は、1898年から1913年の間のどこかで書かれたもの、ということになる。となると、一つの可能性として、登山した時期には「代馬岳」であったのだが、出版される1913年頃には「白馬岳」表記が定着していたため、文章としてのわかりやすさを優先してあえて「白馬岳」表記で書いたのだ、という可能性が残る。しかし1898年の登山直後に書かれたならば、その頃すでに(代馬岳ではなく)白馬岳と表記していたのだという証拠になる。
そこでこの結びの文章である。この文章から伝わってくる、まだ興奮さめやらぬ感触、特に「天候の変、気象万千、ここに天賚の厚きを謝し、併せて同志の士に示す云爾。」という最後の一文は、「下山直後」かそれに近い時期に書かれたものであることを示唆すると思うのだが、どうだろうか。
ここでは、『黎明』の記述に従って、この登山記が書かれたのは1899年であるとしたい。
(6)1904年(明治37年) 志村烏嶺による登山記 「白馬岳」表記・山容由来説
植物学者の志村烏嶺という人物が、1904年に初めて白馬岳に登ったときの登山記がある。『やま』(志村寛、岳出版、1980年)で読むことができる。そこには次のようにある。
朝日に映じては、残雪白駒の蒼穹を奔騰するが如し。故に信州の土民呼んで白馬と言い…
(「白馬岳第一回登山記」 p.1より)
(「白馬岳第一回登山記」 p.1より)
この登山記が書かれた年は不明だが、同書の初版は1907年(1980年版の「緒言」にも明治四十年(=1907年)と署名されている)ので、遅くともそれまでの間には書かれたことになる。
「白駒」と書かれていることからもわかる通り、件の岩形(周知の通り色は「黒」である)が山名の由来という現在の説とは異なり、山全体の形がその名の由来という、いわば「山容由来説」が採られている。
同書の解説によれば、志村烏嶺という人物は1904年から1916年まで、毎年白馬岳登山を繰り返したという。当然、現地の案内人等ともそのたびに触れ合う機会があったわけで、この説には一定の信憑性があるとものと思える。
「白駒」と書かれていることからもわかる通り、件の岩形(周知の通り色は「黒」である)が山名の由来という現在の説とは異なり、山全体の形がその名の由来という、いわば「山容由来説」が採られている。
同書の解説によれば、志村烏嶺という人物は1904年から1916年まで、毎年白馬岳登山を繰り返したという。当然、現地の案内人等ともそのたびに触れ合う機会があったわけで、この説には一定の信憑性があるとものと思える。
(7)1906年(明治39年)『日本山岳志』 「白馬嶽」表記、「シロウマ」読み
[2018/11/5 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
『日本山岳志』(高頭式 編、博文館、1906年)には次のようにある。
『日本山岳志』(高頭式 編、博文館、1906年)には次のようにある。
白馬(ルビ:シロウマ)嶽(蓮華山ノ一峰)信濃國安曇郡越後國西頸城郡越中國下新川郡ニ跨ル…
(「白馬嶽」(コマ番号412)より)
(「白馬嶽」(コマ番号412)より)
上記の通り、「白馬嶽」の表記と「シロウマ」の読みが現れている。
(8)1906年(明治39年) 「シロウマオウギ」の発表・命名 「シロウマ」読み
白馬岳周辺で発見された植物種の和名には、例外なく「シロウマ〜」という名称が採用されており「ハクバ〜」という名前が付けられたものは皆無である。
これら「シロウマ系植物」の中で、最も命名が早かったのは何だろうか。資料で確認できた限りでは、シロウマオウギが1906年、牧野富太郎が「植物学雑誌」に掲載したとされている。
『白馬の歩み:白馬村誌』 (白馬村、1996年)には次のような記載がある。
これら「シロウマ系植物」の中で、最も命名が早かったのは何だろうか。資料で確認できた限りでは、シロウマオウギが1906年、牧野富太郎が「植物学雑誌」に掲載したとされている。
『白馬の歩み:白馬村誌』 (白馬村、1996年)には次のような記載がある。
シロウマオウギ 志村寛が1904年8月,武田久吉が1905年8月,内山が1905年8月(東大に保存)に,それぞれ白馬岳で採集された標本に基づき、1906年に牧野富太郎が「植物学雑誌」に記載した。
(「第4章 植物 第2節 植物相 2 白馬岳の植物研究史」p.356より)
(「第4章 植物 第2節 植物相 2 白馬岳の植物研究史」p.356より)
1906年の「植物学雑誌」とあるが何月号なのかは記載されておらず未確認。間接的な形ではあるが、三角点名に次いで古い、文献上で確認できる「シロウマ」読みである。
(9)1910年(明治43年)『探険探勝日本アルプスと山麓の景勝』 白馬表記・ハクバ読み・山容由来説
『探険探勝日本アルプスと山麓の景勝』(高橋宮二、教倫堂、1910年)には次のようにある。
北城口として本書に其面を現はすものは曰く白馬(ルビ:はくば)、鑓り、大黒、後立(ルビ:ごりう)等日本アルプス北部雄鎮の探険並に信越無人境域の横断なり、(略)
(「北城口」(コマ番号56)より)
(「北城口」(コマ番号56)より)
…或いは白馬(ルビ:はくば)と称え大蓮華(ルビ:だいれんげ)と呼ふ、萬古不滅の残雪白駒の蒼穹を奔騰するか如き奇状あるか故に信州方面にありては白馬と呼ひ(略)
(「山麓より見たる白馬連峯」(コマ番号58〜59)より)
(「山麓より見たる白馬連峯」(コマ番号58〜59)より)
このように、「ハクバ」の読みと、山全体の容姿に由来するという山容由来説が現れている。
(10)1911年(明治44年) 『山岳』誌での山名代掻き馬由来説
1911年に発行された雑誌『山岳』の第6年3号の「雑録」というセクションに、以下のような記載がある。
雑録>白馬岳の名
白馬岳はシロウマにして、ハクバに非ず、昔時は、大蓮華と称したる由、頂上より北に当りて、八十八夜の頃黒く田の代を耕す如き馬の形現出す、故に代馬(ルビ:シロウマ)と云ふとぞ、祖父嶽に、種蒔き親爺出ずる頃なりと云ふ、共に、農事の暦なせりと。(蝶郎)
白馬岳はシロウマにして、ハクバに非ず、昔時は、大蓮華と称したる由、頂上より北に当りて、八十八夜の頃黒く田の代を耕す如き馬の形現出す、故に代馬(ルビ:シロウマ)と云ふとぞ、祖父嶽に、種蒔き親爺出ずる頃なりと云ふ、共に、農事の暦なせりと。(蝶郎)
これが全文の短い文章だが、今日伝わる代掻き馬由来説の、現時点での初出とみられる。なお筆者の「蝶郎」とは、日本山岳会の発起人の一人でもあった高野鷹蔵のことのようだ(YUKI-USAGI様提供の情報)。
http://jac.or.jp/kng-shibuho-7-20171001.pdf
この文は、2年後の1913年に出版された『白馬岳』(北安曇郡教育会)にもそのまま引用されている。
http://jac.or.jp/kng-shibuho-7-20171001.pdf
この文は、2年後の1913年に出版された『白馬岳』(北安曇郡教育会)にもそのまま引用されている。
(略)――白馬嶽はシロウマダケにして、ハクバに非ず。昔時は、大蓮華と称したる由、頂上より北に当りて、八十八夜の頃、黒き田の代を耕す如き馬の形現出する故に代馬といふとぞ。祖父ヶ嶽に種蒔爺の現出する頃なりといふ。共に、農事の暦をなせりと(山岳第六年号蝶郎氏)――嘗て編者も、案内者丸山市三郎から、白馬嶽の白は代である、といふ様な説明を聞いた事がある。
(「白馬嶽という稱呼について」(コマ番号10〜)より)
(「白馬嶽という稱呼について」(コマ番号10〜)より)
(12)1913年(大正2年)『千山万岳』 「白馬岳」表記、「シロウマ」読み
[2018/11/5 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
『千山万岳』(志村烏嶺、嵩山房、1913年)には次のようにある。
『千山万岳』(志村烏嶺、嵩山房、1913年)には次のようにある。
…実に白馬(ルビ:シロウマ)は信州方面山麓民の一般に呼ぶところ(略)
(「二、白馬連峰」(コマ番号155)より)
(「二、白馬連峰」(コマ番号155)より)
このように「シロウマ」読みを採用、なおかつそれが「信州方面山麓民」の呼び方であるとしている。なお本書の著者志村烏嶺は、前出『やま』所収の登山記の著者でもある(その記録では読みには触れていない)。
(13)1915年(大正4年)『松本と安曇』での代掻き馬由来説
[2018/11/5 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
『松本と安曇』(平瀬泣崖 編、鶴林堂書店、1915年)には次のようにある。
『松本と安曇』(平瀬泣崖 編、鶴林堂書店、1915年)には次のようにある。
…山の名称については暮春残雪白馬の天に冲する状を為す故に名づくといふのが普通の解のやうであるが、白馬(ルビ:はくば)ではなく却って雪の消えた跡が爺ヶ岳の種蒔き爺のやうに耕し馬の形になるのだといふ、丁度それが八十八夜の頃から見えるので里人に対して爺ヶ岳が種蒔を促すやうに田の代掻きの季節を示すので代馬(ルビ:しろうま)であるといふ、それ故に白馬を音読するのは山の名称の三度目の変化である(略)
(「白馬岳」(コマ番号71)より)
(「白馬岳」(コマ番号71)より)
見ての通り代掻き馬由来説だ。ただしこの時点では、漢字表記まで「代馬岳が正統」とは明に主張はしていない。また、「八十八夜の頃」というフレーズ、爺ヶ岳の種まき爺と並列させての記述は、前出の「蝶郎雑録」と共通している。
(14)『日本の山水. 山岳編』でのハクバ読み・山容由来説
[2020/6/13 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
『日本の山水. 山岳編』(河東秉五郎、紫鳳閣、1915年)には次のようにある。
※ 河東秉五郎は俳人・河東碧梧桐の本名。
『日本の山水. 山岳編』(河東秉五郎、紫鳳閣、1915年)には次のようにある。
※ 河東秉五郎は俳人・河東碧梧桐の本名。
日本アルプスを双頭の龍に譬ふれば、其右頭角をもたぐるものが、この白馬(ルビ:はくば)の山塊である。(中略)最も雪の消え難きこの山塊は、他峯に比して殆んど一馬背の高さを聳え立つ。殊に南方即ち臀部は稍や平円にして、北方即ち馬頭に位する処鋭峯の隆起を見る。白馬の名も亦た所以あるを思はしめる。
ただし「由来」の部分については、あくまで筆者の主観として「そうだと思う」という内容となっている。
(15)1915年(大正4年)「白馬山荘」誕生 「白馬」表記・「ハクバ」読み
現在日本最大の山小屋として知られる白馬山荘は、この年に「頂上小屋」から改名され「白馬山荘」となった。読みは「はくばさんそう」である。また、翌1916年には、「白馬尻小屋」(はくばじりごや)、および白馬駅前に登山者向けの旅館「白馬館」(はくばかん。「山木旅館」からの改名)ができる。このあたりの経緯は、『北アルプス山小屋案内』(柳原修一、山と溪谷社、1987年)に詳しい。
その他、近在の山小屋や施設、スキー場などの名称として使われる「白馬」は、今日に至るまですべて「ハクバ」と読むのが正式名称である。
その他、近在の山小屋や施設、スキー場などの名称として使われる「白馬」は、今日に至るまですべて「ハクバ」と読むのが正式名称である。
(16)『日本アルプス白馬岳登山案内』でのシロウマ読み・代掻き馬由来説
[2020/6/13 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
『日本アルプス白馬岳登山案内』(高山館 編、梅津書店、1919年)
※表紙には、「白馬山麓 北城小学校内 高山館」とあり、この高山館というのは「地元組織」であるようだ。
『日本アルプス白馬岳登山案内』(高山館 編、梅津書店、1919年)
※表紙には、「白馬山麓 北城小学校内 高山館」とあり、この高山館というのは「地元組織」であるようだ。
シロウマダケと呼ぶ、近頃ハクバサンと呼ばはるるのは大なる誤りである。八十八夜頃頂上から北の方に当りて、馬の形のやうに雪が消えて黒く現はれる、古え是を里人の農事暦としたと云ふ、即ち是が出ると田代を掻いたと云ふ、シロウマダケと此山に命名したのは之が起源である。(中略)白馬岳は代馬岳と云ふ意味なりしを白い山であるから一変してしまったのである。又再変して、ハクバサンとなったのは如何にしても甚だしき変化である。
矢張シロウマダケの方が由来もあっておくゆかしい…(後略)
矢張シロウマダケの方が由来もあっておくゆかしい…(後略)
(17)1920年(大正9年)〜1929年(昭和4年) 『日本アルプス登山案内』 山容由来説から代掻き馬由来説への転向?
『日本アルプス登山案内』(矢澤米三郎, 河野齢蔵 共著、岩波書店、1920年)には次のようにある。
(略)其頂上附近は石英斑岩より成る。暮春の残雪の中駿馬の天に冲するの状をなすにより、信濃方面にては之を白馬岳と呼び、(略)
(「白馬岳」の項(コマ番号29〜)より)
(「白馬岳」の項(コマ番号29〜)より)
一見すると「代掻き馬起源説」を唱えているように読めるが、よく読むとそうではないことがわかる。「暮春の残雪の中駿馬の天に冲する」の主語は、直前の文に登場する「石英斑岩」であるようにも読めるが、であるとすると「〜により…之を白馬岳と呼び」というフレーズがつながらないからだ。いうまでもなく、件の岩の模様の色は「黒」だからである。「暮春の残雪の中駿馬の天に冲する」のは、山全体の姿であると解釈すべきだろう。
ところがである。この本は1929年(昭和4年)に、『日本アルプス 附・登山案内』というタイトルで再出版されている(著者クレジットは同じ河野齢蔵・矢澤米三郎)のだが、その版では、上記引用箇所に該当する部分は、次のようになっているのだ。
ところがである。この本は1929年(昭和4年)に、『日本アルプス 附・登山案内』というタイトルで再出版されている(著者クレジットは同じ河野齢蔵・矢澤米三郎)のだが、その版では、上記引用箇所に該当する部分は、次のようになっているのだ。
(略)頂上附近は石英斑岩である。暮春残雪の中に黒い馬が見へて農家の苗代の催促をするので、此地方の人は之を代馬と呼んで居る。
(「白馬岳」の項 p.12より)
(「白馬岳」の項 p.12より)
「農家の苗代の催促」だとか「代馬と呼んで居る」だとか、1920年版には全くでて来ていない話が加筆されており、完全に「代掻き馬由来説」に「転向」している。
(18)1923年『北安曇郡志』での代掻き馬由来説
[2018/11/5 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
『北安曇郡志』(北安曇郡役所、1923年)には次のようにある。
『北安曇郡志』(北安曇郡役所、1923年)には次のようにある。
…日本アルプス北方の重鎮たる白馬岳(二九二四米或曰三〇四一米)に暮春残雪恰も白馬天に沖すと謂はんよりは、爺ヶ岳が種蒔を促したるが如く、田の代掻の季節を示すを以て、代馬(しろうま)の姿にとて、山の名の由つて来る所以なりと。
(「第一編 地理篇、自然地理、第五章 気象」p.54より)
(「第一編 地理篇、自然地理、第五章 気象」p.54より)
代掻き馬由来説だが、「旧説」の紹介で使われている「暮春残雪恰も白馬天に沖す」は、前出『松本と安曇』の「暮春残雪白馬の天に冲する」に極めて似ている。爺ヶ岳の種まき爺を引き合いに出しているのも、「蝶郎雑録」や『松本と安曇』との共通点。
(19)『療養遊覧山へ海へ温泉へ』でのシロウマ読み・「岩形=白馬」由来説
[2020/6/13 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
『療養遊覧山へ海へ温泉へ』(松川二郎、日本書院、1923年)には次のようにある。
『療養遊覧山へ海へ温泉へ』(松川二郎、日本書院、1923年)には次のようにある。
シロウマダケと読むので、ハクバではない。(中略)其の山頂付近に露出するものは主として石英斑岩で、恰かも白馬の天空を奔馳するの形がある。
ハクバ読みを否定・シロウマ読みを肯定する文章としては珍しいことに、代掻き馬由来説に触れていない。正確には、「岩形」の存在には触れているが、肝心の「山麓の農民がそれを見て代掻きを始めた」という部分の記述が欠けている。例の岩形が白馬のように見えた(繰り返すが現物は「黒馬」である)から白馬岳になったのだ、と示唆する、他に無い独特の由来説を開陳している。
もっとも、この本は登山の本ではなく、日本全国のかなり広い範囲をカバーする「温泉・観光ガイド」なので、単にそこまで情報収集の手が回らなかったのかもしれない。
もっとも、この本は登山の本ではなく、日本全国のかなり広い範囲をカバーする「温泉・観光ガイド」なので、単にそこまで情報収集の手が回らなかったのかもしれない。
(20)昭和期の書籍における代掻き馬由来説たち
[2018/11/5 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき追記]
[2020/6/13 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき再追記]
『白馬岳』(矢澤米三郎、岩波書店、1930年)には次のようにある。
[2020/6/13 YUKI-USAGI様の情報提供に基づき再追記]
『白馬岳』(矢澤米三郎、岩波書店、1930年)には次のようにある。
「しろうまだけ」の名称は、五月上旬(八十八夜前後)に東北に並ぶ小蓮華との間の斜面に、黒い馬が残雪中に出て代掻きを促すので、農家が農事歴として此「代馬」を目標として附けたのであるから、正当の宛字をすれば勿論「代馬」で、特に其馬は黒く見えるのであるから、白馬ではない。此意味から、近年軽薄なる登山家や、心なき人々の間に呼ばれ勝の「ハクバ」の名は穏やかで無い。
この山をハクバと呼ぶのは「軽薄」で「心無い」行為なのだそうだ。
ちなみに著者の矢澤米三郎は、1920年版『日本アルプス登山案内』で「暮春の残雪の中駿馬の天に冲するの状をなすにより、信濃方面にては之を白馬岳と呼び」と書いている(共著書なので本人の筆による部分ではないのかもしれないが)。
ちなみに著者の矢澤米三郎は、1920年版『日本アルプス登山案内』で「暮春の残雪の中駿馬の天に冲するの状をなすにより、信濃方面にては之を白馬岳と呼び」と書いている(共著書なので本人の筆による部分ではないのかもしれないが)。
『国語読本の発音とアクセント. 尋常5学年』(神保格、厚生閣書店、1930年)には次のようにある。
ダイ ニジュウ シロンマダケ
…オカダサンワ シゴニンノ オトモダチニ シロンマ トザンノ オハナシオ ナサつテ イラつシャル トコロデシタ…
…オカダサンワ シゴニンノ オトモダチニ シロンマ トザンノ オハナシオ ナサつテ イラつシャル トコロデシタ…
「シロンマ」はこれまで登場しなかった新しい読みである。だが、この書籍はタイトルにある通り「発音」にフォーカスしたものである。
上で引用した以外の部分では、「頂上」を「チョオジョオ」、「金剛杖」を「コンゴオヅエ」と表記していたりするので、正書法ではなくあくまで会話時の実際の発音を教えるためのものだとすれば、「シロウマダケ」を実際の会話中での発音に近い「シロンマダケ」と表記しただけにすぎないと考えるのが妥当か(今も昔も、日本語は(他の大部分の言語と同様)「言文完全一致」は成し遂げていない)。
上で引用した以外の部分では、「頂上」を「チョオジョオ」、「金剛杖」を「コンゴオヅエ」と表記していたりするので、正書法ではなくあくまで会話時の実際の発音を教えるためのものだとすれば、「シロウマダケ」を実際の会話中での発音に近い「シロンマダケ」と表記しただけにすぎないと考えるのが妥当か(今も昔も、日本語は(他の大部分の言語と同様)「言文完全一致」は成し遂げていない)。
『日本民俗学論考』(中山太郎、一誠社、1933年)には次のようにある。
…信州の白馬岳も古くは代馬(ルビ:シロウマ)を書き雪が馬の形に残る頃を見計らつて、田ノ代を掻いたので、此の名を負ふやうになつたのである(松本と安曇)。
また、『農村の年中行事』(武田久吉、竜星閣、1943年)には次のようにある。
…この馬(「代掻き馬」の岩形のこと;引用者注)の出現によつて山名が導かれたので、通称白馬嶽は、実は代馬ケ嶽でなければならないのである。
(「代こしらへ」(コマ番号169〜)より)
(「代こしらへ」(コマ番号169〜)より)
もはや「白馬嶽」は「通称」であるとまで言い切っている。
(21)1956年(昭和31年)「白馬村」発足 「白馬」表記、「ハクバ」読み
ずっと時代は下るが、1956年に、北城村と神城村が合併して白馬村となった。読みは「はくばむら」である。『北アルプス山小屋物語』 (柳原修一、東京新聞出版局、1995年)によると、合併時の村名決定投票では、「はくばむら」に賛成する人が圧倒的多数だったという。
(22)1968年(昭和43年)国鉄「白馬駅」誕生 「白馬」表記、「ハクバ」読み
戦後、北城村と神城村が合併して白馬村が誕生した。この村名決定に際しては圧倒的多数でハクバ村に決定したという。
(「白馬岳の山名考」節 p.130より)
(「白馬岳の山名考」節 p.130より)
これ以降、すなわち1970年代以降今日に至るまで、山岳ガイドブックや山の読本の類で白馬岳が登場するものでは、ほぼ必ずと言っていいほど「代掻き馬由来説」が定説として紹介されるようになっている。
3.表記・読み・由来についての史料上での形勢まとめ
■漢字表記
一貫して「白馬岳(嶽)」表記であり、「代馬岳(嶽)」としているものは確認されていない。
※「かつては代馬岳だった」「正しくは代馬岳と書かなければならない」という文脈での表出は除外。
■読み
ハクバ読みが先行して登場。陸地測量部が三角点名を「シロムマダケ」とした(一次史料未確認)のをきっかけに、「シロウマダケ」読みが優勢となっていく(ただしそれ以前から並行的にシロウマダケ読みも使われていた可能性まで排除するものではない)。1910年頃までは「ハクバ」「シロウマ」並立、その後シロウマが主流に。ただし山小屋名・自治体名などにおいては現在に至るまで「ハクバ」読みが維持されている。
■山名由来
「白馬嶽」初出の1824年から、近代白馬登山黎明期である1880年代を過ぎてしばらくの間は、山名由来について言及無し。1904年〜1910年に山容由来説が散発的に見られる。1911年に代掻き馬由来説が初出し、以後急速に登場頻度が増加。
一貫して「白馬岳(嶽)」表記であり、「代馬岳(嶽)」としているものは確認されていない。
※「かつては代馬岳だった」「正しくは代馬岳と書かなければならない」という文脈での表出は除外。
■読み
ハクバ読みが先行して登場。陸地測量部が三角点名を「シロムマダケ」とした(一次史料未確認)のをきっかけに、「シロウマダケ」読みが優勢となっていく(ただしそれ以前から並行的にシロウマダケ読みも使われていた可能性まで排除するものではない)。1910年頃までは「ハクバ」「シロウマ」並立、その後シロウマが主流に。ただし山小屋名・自治体名などにおいては現在に至るまで「ハクバ」読みが維持されている。
■山名由来
「白馬嶽」初出の1824年から、近代白馬登山黎明期である1880年代を過ぎてしばらくの間は、山名由来について言及無し。1904年〜1910年に山容由来説が散発的に見られる。1911年に代掻き馬由来説が初出し、以後急速に登場頻度が増加。
最後に、現段階ではまだ現物確認できていない資料(下記にリストアップ)や、その他山名および山名由来を探る助けになる新情報が載った資料をご存知の方がいたらコメントいただけると幸いである。
補足.現物確認ができていない資料の一覧
・1824年(文政7年) 千国・塩島境界争い時に作製された、「白馬嶽」の記載があるという絵図
・1883年(明治16年) 北安曇野郡長・窪田畔夫と大町小学校長・渡辺敏らによる、「白馬」表記があるという登山記
・1893年(明治26年)陸地測量部の一等三角点選定時に「シロムマダケ」の読みを記したという測量記録
・1906年(明治39年) 「シロウマオウギ」の発表・命名がされたという『植物学雑誌』
1906年に出版された同誌(全12号)は国会図書館で参照可能だったが、あまりにも内容が専門的で読み解くのに挫折した。
・1883年(明治16年) 北安曇野郡長・窪田畔夫と大町小学校長・渡辺敏らによる、「白馬」表記があるという登山記
・1893年(明治26年)陸地測量部の一等三角点選定時に「シロムマダケ」の読みを記したという測量記録
・1906年(明治39年) 「シロウマオウギ」の発表・命名がされたという『植物学雑誌』
1906年に出版された同誌(全12号)は国会図書館で参照可能だったが、あまりにも内容が専門的で読み解くのに挫折した。
更新履歴
[2018/11/1] 2.文献調査に、『探険探勝日本アルプスと山麓の景勝』(1910年)を追加。
[2018/11/5]
・2.文献調査に、YUKI-USAGI様からの情報提供に基づき、以下の文献を追加。
・1906年(明治39年)『日本山岳志』
・1913年(大正2年)『千山万岳』
・1915年(大正4年)『松本と安曇』
・1923年(大正12年)『北安曇郡志』
・1933年(昭和8年)『日本民俗学論考』
・1943年(昭和18年)『農村の年中行事』
・2.文献調査の1913年(大正2年) 『白馬岳』での山名代掻き馬由来説 を、1911年(明治44年) 『山岳』誌での山名代掻き馬由来説として内容を修正。
・新情報の追加により、「3.考察」を除去、かわりに「3.表記・読み・由来についての史料上での形勢まとめ」を追加。
[2020/6/13]
・2.文献調査に、YUKI-USAGI様からの情報提供に基づき、以下の文献を追加。
・1915年(大正4年)『日本の山水. 山岳編』
・1919年(大正8年)『日本アルプス白馬岳登山案内』
・1923年(大正12年)『療養遊覧山へ海へ温泉へ』
・1930年(昭和5年)『白馬岳』
・1930年(昭和5年)『国語読本の発音とアクセント. 尋常5学年』
[2018/11/5]
・2.文献調査に、YUKI-USAGI様からの情報提供に基づき、以下の文献を追加。
・1906年(明治39年)『日本山岳志』
・1913年(大正2年)『千山万岳』
・1915年(大正4年)『松本と安曇』
・1923年(大正12年)『北安曇郡志』
・1933年(昭和8年)『日本民俗学論考』
・1943年(昭和18年)『農村の年中行事』
・2.文献調査の1913年(大正2年) 『白馬岳』での山名代掻き馬由来説 を、1911年(明治44年) 『山岳』誌での山名代掻き馬由来説として内容を修正。
・新情報の追加により、「3.考察」を除去、かわりに「3.表記・読み・由来についての史料上での形勢まとめ」を追加。
[2020/6/13]
・2.文献調査に、YUKI-USAGI様からの情報提供に基づき、以下の文献を追加。
・1915年(大正4年)『日本の山水. 山岳編』
・1919年(大正8年)『日本アルプス白馬岳登山案内』
・1923年(大正12年)『療養遊覧山へ海へ温泉へ』
・1930年(昭和5年)『白馬岳』
・1930年(昭和5年)『国語読本の発音とアクセント. 尋常5学年』
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
※この記事はヤマレコの「ヤマノート」機能を利用して作られています。
どなたでも、山に関する知識や技術などのノウハウを簡単に残して共有できます。
ぜひご協力ください!
takeaki様
興味深く読ませていただきました。
文中にも書かれていますが、私は大蓮華岳が正しく、白馬岳は俗称にしか思えませんでした。
湯治場である蓮華温泉から上がるのが大蓮華岳。
スキーが持ち込まれた栂池は観光地。
観光地なら白馬に乗った王子様との出会いを期待してその上の山も白馬岳。
田部重治や小暮理太郎が歩いた時代は三角点もなければ山名も確定していない時代だったようです。
大蓮華岳を白馬岳に変える必然性を調べてみてください。
takeaki様
蝶郎は、高野鷹蔵という人物のようです。詳細は下記リンク先(PDF)をご参照ください。
http://jac.or.jp/kng-shibuho-7-20171001.pdf
YUKI-USAGI様
おお、早速の貴重な情報、ありがとうございます。
これほど人物の語るところであれば、「代掻き馬由来説」も故なきことではなさそうですね!
調べてみましたが、代馬説ばかり出てきますね。
高頭式 編『日本山岳志』明治39.2
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762370/412
「白馬(シロウマ)嶽」の表記
平瀬泣崖 編『松本と安曇』大正4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932571/71
代馬説を記載
鉄道省 編『日本アルプス案内』大正14
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977748/29
白馬(シロウマ)岳の表記
代馬説を記載
北安曇郡役所『北安曇郡志』大正12
https://books.google.co.jp/books?id=1yB7o95QeGAC&hl=ja&pg=PP102#v=onepage&q&f=false
代馬説を記載
中山太郎 著『日本民俗学論考』昭和8
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466419/60
代馬説を記載
武田久吉 著『農村の年中行事』1943
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453405/169
代馬説を記載
ありがとうございます!
いただいた状況を盛り込む形で、本文を改稿させていただいてもかまいませんでしょうか?
どうぞ。
それから、『やま』の著者志村烏嶺の著書『千山万岳』(大正2)に、
「白馬(シロウマ)は信州山麓民の一般に呼ぶところ」との記載がありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951217/155
ありがとうございます。時系列順に挿入追記させていただきました。
なおこれまであった「考察」の説は新情報追加のたび再考が必要になるのと、あまりに長文で「史料の集積場としたい」という本ノートを書き始めた本来の目的がブレてしまうため除去し、かわりに史料上での漢字表記・読み・由来の趨勢について簡単にまとめた節を作りました。
随分、時間が経ちましたが、
PEAKS2019年8月号
https://www.ei-publishing.co.jp/browsing/2019071302/
に、「白馬岳の山名をめぐる論争が、いま静かに巻き起こっている。」として、「「シロウマ」か「ハクバ」か、それが問題だ」という記事がありました。
静かな論争を巻き起こしたのはKutamiRakuさんのヤマノートかもしれませんね。
YUKI-USAGI様
("takmaki"からユーザー名を変更しましたがノート作成者です)
情報ありがとうございます。早速電子版を購入して読んでみました。
新しい情報こそ無かったですが、さすがプロが作る雑誌だけあってわずか2ページの中にわかりやすくまとまっていましたね。
また調べてみました。
河東秉五郎 著『日本の山水. 山岳編』 大正4
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953872/70
※ 河東秉五郎は俳人 河東碧梧桐の本名
高山館 編『日本アルプス白馬岳登山案内』 大正8
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961924/8
松川二郎 著『療養遊覧山へ海へ温泉へ』 大正12
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977512/22
矢沢米三郎 著『白馬岳』 昭和5
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177516/22
神保格 著『国語読本の発音とアクセント. 尋常5学年』 昭和5
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462563/73
お返事遅れてしまいました。
追加情報のご提供ありがとうございます。
「シロンマダケ」は新しいですね!(笑)
後ほど本文に反映させていただきます。
まずはお礼まで。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する