(はじめに)
この3−6章では、恵那山の地質について説明します。
恵那山は、中央アルプスの山列のさらに南にあり、木曽川水系と天竜川水系との分水嶺という意味では、中央アルプスの続きとも言えますが、山容、地質、および山の隆起メカニズムが異なります。この章では、そのあたりを説明します。
恵那山は、中央アルプスの山列のさらに南にあり、木曽川水系と天竜川水系との分水嶺という意味では、中央アルプスの続きとも言えますが、山容、地質、および山の隆起メカニズムが異なります。この章では、そのあたりを説明します。
1)恵那山の地形的な特徴
恵那山は、登山ガイドブックなどでは、中央アルプスの一部として紹介されることも多いのですが、地形、地理学的には、愛知県東部に広がる「三河高原」の一部として捉えることもでき、地図や地理学のテキストによって、どこのエリアに属するかは、まちまちです。
この項では、(文献1)に基づき、三河高原の一部という観点で説明します。
「三河高原」とは、愛知県東部(および一部は岐阜県東部)に広がる、標高数百mの丘陵部〜1000m台の山からなる高原状の地域です。南は三河湾に接し、西側は濃尾平野に接しています。全体的に東側(特に北東部の恵那山付近)が高く、西側に向かって低くなって濃尾平野へと没しており、東側が隆起量=大、西側が隆起量=小の、傾動した高原です。
なお濃尾平野自体も、その基盤岩の位置の調査によると、基盤自体が、西側がより深く沈降している、傾動した基盤をもっており、西縁の養老山地(養老断層)直下では、基盤岩は地下2000mほどの深さまで落ち込んでいます。
つまり、三河高原から濃尾平野まで全体として、東上がり、西下がりの傾動地形と言えます。
その三河高原の北東端にそびえる恵那山は、この傾動した地域の最高峰であり、もっとも隆起量が大きい場所に位置することになります。
恵那山はその周辺の山よりさらに高く、この地域では唯一の2000mを越える山ですが、その周辺の山も、焼岳(標高;1710m、恵那山の南 約10km)や、大川入山(標高;1908m、恵那山の南東 約10km)と、1500mを越える山々がいくつか存在します。
後に詳細説明をしますが、この恵那山を中心とした地塊は、断層活動によって、その周辺よりもさらに高くなったと考えられています。
また恵那山の山容は、まんじゅう型の大きな山体をしていて、中央アルプス中核部の切り立った険しい山脈とは、だいぶ山容が異なります。周辺の低い山地から約1000mほど盛り上がったその山容は、遠方(たとえば名古屋市内や長野中央部の山々)からも、わりと目立ち、それと知れます。
これは、のちに述べるブロック状の隆起の影響に加え、隆起した時代が割と新しく、まだ周辺部からの河川浸食が及んでいないことを示していると思われます。
この項では、(文献1)に基づき、三河高原の一部という観点で説明します。
「三河高原」とは、愛知県東部(および一部は岐阜県東部)に広がる、標高数百mの丘陵部〜1000m台の山からなる高原状の地域です。南は三河湾に接し、西側は濃尾平野に接しています。全体的に東側(特に北東部の恵那山付近)が高く、西側に向かって低くなって濃尾平野へと没しており、東側が隆起量=大、西側が隆起量=小の、傾動した高原です。
なお濃尾平野自体も、その基盤岩の位置の調査によると、基盤自体が、西側がより深く沈降している、傾動した基盤をもっており、西縁の養老山地(養老断層)直下では、基盤岩は地下2000mほどの深さまで落ち込んでいます。
つまり、三河高原から濃尾平野まで全体として、東上がり、西下がりの傾動地形と言えます。
その三河高原の北東端にそびえる恵那山は、この傾動した地域の最高峰であり、もっとも隆起量が大きい場所に位置することになります。
恵那山はその周辺の山よりさらに高く、この地域では唯一の2000mを越える山ですが、その周辺の山も、焼岳(標高;1710m、恵那山の南 約10km)や、大川入山(標高;1908m、恵那山の南東 約10km)と、1500mを越える山々がいくつか存在します。
後に詳細説明をしますが、この恵那山を中心とした地塊は、断層活動によって、その周辺よりもさらに高くなったと考えられています。
また恵那山の山容は、まんじゅう型の大きな山体をしていて、中央アルプス中核部の切り立った険しい山脈とは、だいぶ山容が異なります。周辺の低い山地から約1000mほど盛り上がったその山容は、遠方(たとえば名古屋市内や長野中央部の山々)からも、わりと目立ち、それと知れます。
これは、のちに述べるブロック状の隆起の影響に加え、隆起した時代が割と新しく、まだ周辺部からの河川浸食が及んでいないことを示していると思われます。
2)恵那山の地質
前の章までに説明した中央アルプス主要部の地質は、非常に単純な構成をしており、山麓部に、もともとこの一帯を覆っていた堆積岩由来の変成岩類(領家変成岩類)が残っており、山脈のほとんどは、地下深くでできた花崗岩類が隆起して、山々を形成していました。
一方、恵那山の地質を、「地質図」によって確認すると、かなり複雑な地質構造をもっています。
説明の都合上、恵那山の山体を、3つの尾根を区切りとして、3つの部分に区分します。具体的には、「北西面」、「南面」、「東面」の3つの部分です。
a) 恵那山「北西面」の地質は、産総研「シームレス地質図v2」によると、新第三紀 中新世後期(約15〜7Ma)に噴出した、大規模火砕流堆積物(デイサイト〜流紋岩質)でできています。この地質は、恵那市を中心とした一帯にも分布していますが、どこにあった火山から噴出したかは不明です。
b) 恵那山「南面」の地質は、産総研「シームレス地質図v2」によると、ジュラ紀中期〜前期白亜紀(約165Ma〜約125Ma)にできた、いわゆる「付加体」型の堆積岩で、主に砂岩でできています。この地層と類似の地層は、西へ30-50km離れた、岐阜県美濃地方の丘陵部、山間部に広く分布しており、ジュラ紀付加体である「丹波・美濃帯」の地質です。
c) 恵那山「東面」の地質は、少し複雑です。産総研「シームレス地質図v2」によると、頂上に近いあたりは、主に山頂の北西面に分布する、中新世の大規模火砕流堆積物と、主に山頂の南面に分布するジュラ紀の「付加体」型堆積物が分布しています。
それより標高が低い辺りは、後期白亜紀(約100Ma〜約84Ma)に堆積した、非海成(=淡水性)の堆積層(砂岩、泥岩)があります。この地層は、この一帯では分布が限られており、中津川市の北西、約10〜30km付近に点在しています。おそらくこの時期(後期白亜紀)、この一帯には淡水湖があったのではないかと思われますが、詳細は不明です。
さらにこれらの地層が分布している領域よりも標高の低い部分(大まかにいうと標高約1500mより下)には、山頂部を取り囲むかのように、白亜紀末(約83-66Ma)の花崗岩が分布しています。これは中央アルプス主要部のところで説明した、「領家花崗岩類」であり、形成時期も白亜紀末ということで同じです。
この「領家花崗岩類」は、恵那山周辺だけでなく、三河高原のほとんどの部分を占めています。これはこの一帯が長い間、陸上にあり、元々花崗岩より構造的上位にあったと思われる堆積岩などの地層が浸食、剥離され、一方で元々地下深く(約3-10km)で形成された花崗岩類が上昇してきて、現在の位置を占めているものと思われます。
さて、地質の説明が細かくなりましたので、恵那山の地質を、時代が古い順に改めて整理すると、以下のようになります。
まず、ジュラ紀中期〜白亜紀後期(約165Ma〜約125Ma)にかけ、この地区は海洋プレート沈み込み帯であり、沈み込み帯に沿って砂岩中心の「付加体」堆積物(丹波・美濃帯)が形成されました。
白亜紀後期(約100Ma〜約84Ma)には、この一帯は沈み込み帯ではなく陸化しており、その中に淡水湖がありました。そこでは淡水性の堆積物(泥岩、砂岩)が堆積しました。
一方、地下深く(約3〜10km)では、白亜紀末期(約83-66Ma)に、地下に存在したマグマだまりが冷却、固化して、地下深くに花崗岩類が形成されました。
その後の古第三紀の状況は不明です。
続いて日本海拡大/日本列島移動イベント(約20-15Ma)の後、新第三紀 中新世(約15〜7Ma)には、この近辺で火山活動が起こり、大規模火砕流が発生して、その火砕流堆積物がこの一帯に堆積しました。
一見、茫洋とした山容の恵那山ですが、上記のような、この地域でおきた複雑な地史を残しています。
ところで、標高が低めの三河高原主要部(300-1000m程度)には、古い地層がほとんど残っておらず、地下深部の花崗岩類が露出している一方で、標高が2000mを越える恵那山の山頂部には、中生代(ジュラ紀、白亜紀)や、新第三紀の地層(堆積岩、火山岩)が残存しているのは、ちょっと不思議な気がします。
こういった、古い地質が、標高が高い山の上だけに残存しているケースはたまにあり、山頂付近にある古い地質(群)のことを、「ルーフペンダント状(地層)」と言ったりもします。
また、産総研「シームレス地質図v2」を眺めて気が付くのは、今のJR中央本線沿いの一帯、多治見市〜土岐市〜恵那市〜中津川市〜恵那山山頂部にかけて、中生代や、新第三紀の地層が帯状に分布している点です。
これはこの一帯が長い間、「地溝状」の低地帯となっていて、浸食があまり進まなかったために、古い地層が残存しているのかもしれません(この段落は私見です)。
恵那山の場合、いずれにしろ、長い間、浸食が少ない状況下にあり、地質学的時間では比較的最近(第四紀中期以降;約100〜50万年前頃から?)になって急激に隆起したために、山体の上部はまだ河川による浸食が進んでおらず、古い地質が残っているのではないか、と思われます(私見です)。
※ “ Ma “ は、百万年前を意味する単位。
一方、恵那山の地質を、「地質図」によって確認すると、かなり複雑な地質構造をもっています。
説明の都合上、恵那山の山体を、3つの尾根を区切りとして、3つの部分に区分します。具体的には、「北西面」、「南面」、「東面」の3つの部分です。
a) 恵那山「北西面」の地質は、産総研「シームレス地質図v2」によると、新第三紀 中新世後期(約15〜7Ma)に噴出した、大規模火砕流堆積物(デイサイト〜流紋岩質)でできています。この地質は、恵那市を中心とした一帯にも分布していますが、どこにあった火山から噴出したかは不明です。
b) 恵那山「南面」の地質は、産総研「シームレス地質図v2」によると、ジュラ紀中期〜前期白亜紀(約165Ma〜約125Ma)にできた、いわゆる「付加体」型の堆積岩で、主に砂岩でできています。この地層と類似の地層は、西へ30-50km離れた、岐阜県美濃地方の丘陵部、山間部に広く分布しており、ジュラ紀付加体である「丹波・美濃帯」の地質です。
c) 恵那山「東面」の地質は、少し複雑です。産総研「シームレス地質図v2」によると、頂上に近いあたりは、主に山頂の北西面に分布する、中新世の大規模火砕流堆積物と、主に山頂の南面に分布するジュラ紀の「付加体」型堆積物が分布しています。
それより標高が低い辺りは、後期白亜紀(約100Ma〜約84Ma)に堆積した、非海成(=淡水性)の堆積層(砂岩、泥岩)があります。この地層は、この一帯では分布が限られており、中津川市の北西、約10〜30km付近に点在しています。おそらくこの時期(後期白亜紀)、この一帯には淡水湖があったのではないかと思われますが、詳細は不明です。
さらにこれらの地層が分布している領域よりも標高の低い部分(大まかにいうと標高約1500mより下)には、山頂部を取り囲むかのように、白亜紀末(約83-66Ma)の花崗岩が分布しています。これは中央アルプス主要部のところで説明した、「領家花崗岩類」であり、形成時期も白亜紀末ということで同じです。
この「領家花崗岩類」は、恵那山周辺だけでなく、三河高原のほとんどの部分を占めています。これはこの一帯が長い間、陸上にあり、元々花崗岩より構造的上位にあったと思われる堆積岩などの地層が浸食、剥離され、一方で元々地下深く(約3-10km)で形成された花崗岩類が上昇してきて、現在の位置を占めているものと思われます。
さて、地質の説明が細かくなりましたので、恵那山の地質を、時代が古い順に改めて整理すると、以下のようになります。
まず、ジュラ紀中期〜白亜紀後期(約165Ma〜約125Ma)にかけ、この地区は海洋プレート沈み込み帯であり、沈み込み帯に沿って砂岩中心の「付加体」堆積物(丹波・美濃帯)が形成されました。
白亜紀後期(約100Ma〜約84Ma)には、この一帯は沈み込み帯ではなく陸化しており、その中に淡水湖がありました。そこでは淡水性の堆積物(泥岩、砂岩)が堆積しました。
一方、地下深く(約3〜10km)では、白亜紀末期(約83-66Ma)に、地下に存在したマグマだまりが冷却、固化して、地下深くに花崗岩類が形成されました。
その後の古第三紀の状況は不明です。
続いて日本海拡大/日本列島移動イベント(約20-15Ma)の後、新第三紀 中新世(約15〜7Ma)には、この近辺で火山活動が起こり、大規模火砕流が発生して、その火砕流堆積物がこの一帯に堆積しました。
一見、茫洋とした山容の恵那山ですが、上記のような、この地域でおきた複雑な地史を残しています。
ところで、標高が低めの三河高原主要部(300-1000m程度)には、古い地層がほとんど残っておらず、地下深部の花崗岩類が露出している一方で、標高が2000mを越える恵那山の山頂部には、中生代(ジュラ紀、白亜紀)や、新第三紀の地層(堆積岩、火山岩)が残存しているのは、ちょっと不思議な気がします。
こういった、古い地質が、標高が高い山の上だけに残存しているケースはたまにあり、山頂付近にある古い地質(群)のことを、「ルーフペンダント状(地層)」と言ったりもします。
また、産総研「シームレス地質図v2」を眺めて気が付くのは、今のJR中央本線沿いの一帯、多治見市〜土岐市〜恵那市〜中津川市〜恵那山山頂部にかけて、中生代や、新第三紀の地層が帯状に分布している点です。
これはこの一帯が長い間、「地溝状」の低地帯となっていて、浸食があまり進まなかったために、古い地層が残存しているのかもしれません(この段落は私見です)。
恵那山の場合、いずれにしろ、長い間、浸食が少ない状況下にあり、地質学的時間では比較的最近(第四紀中期以降;約100〜50万年前頃から?)になって急激に隆起したために、山体の上部はまだ河川による浸食が進んでおらず、古い地質が残っているのではないか、と思われます(私見です)。
※ “ Ma “ は、百万年前を意味する単位。
3)恵那山の隆起メカニズム
恵那山を含む三河高原の地形の変遷と、それによる恵那山の隆起メカニズムについて、(文献1)に基づき、説明します。
この一帯で隆起活動が始まったのは、第四紀の前期(約180万年頃? ;注2)と推定されています。
続いて第四紀の中期(約100万年〜50万年頃? ;注2)には、恵那山から南西方向(猿投山)への隆起軸を主体に、大規模な波状の地形の変形が起こったと推定されています。
その後、第四紀後期(注2)には、変動様式が変化しました。北東―南西軸の断層系と、それと直交する北西―南東軸の断層系が形成されて活動し、各断層に区切られたブロック(地塊)ごとに、さまざまに隆起、傾動運動をした、と推定されています。
現在、この地域には、北東―南西軸の断層としては、屏風山(びょうぶやま)断層があり、累積垂直変動量は少なくとも600mと見積もられています。この断層は恵那山と中津川盆地との間を走っています。
また、北西―南東軸の断層としては、阿寺(あでら)断層があり、これも累積垂直変位量は少なくとも600mあります。阿寺断層(崖)は、御岳山の南側に広がる、阿寺山地という低い山地の南縁を区切っていますが、その延長線は、恵那山の北側、神坂峠付近を通っています(なお、神坂峠付近は、活断層ではない)。
恵那山付近には、北西側に、屏風山断層と並行に、川上断層があり、南側には東西方向の走向を持つ恵那山断層があります。さらに東側にも、木曽山脈西縁断層帯から派生した、清内路峠(せいないじとうげ)断層(帯)という南北走向の断層群があります。全体的にみると、恵那山付近は、3つの断層群に区切られた、三角形をしたブロック状の地塊を形成しています。
このような活断層に区切られた各ブロック状地塊の運動の中で、恵那山ブロック(地塊)は、特に大きく隆起して、2000mを越える標高になったものと推定されます。
なお、恵那山ブロックを囲む、屏風谷断層、川上断層、恵那山断層、清内路峠断層、神坂神社断層は、いずれも活断層と認定されています(注3)。ということは現在でもそれらの断層の活動によって、恵那山ブロックは隆起を続けているのかもしれません(私見です)。
注2) (文献1)は、2006年に出版された書物です。「第四紀」の始まりの国際的定義は、2008年までは179万年前でしたが、2009年以降は 259万年前と、2009年に定義が変更されました。よって(文献1)で言うところの「第四紀」の範囲は、180万年前から現在まで、と考えられます。
注3)産総研「シームレス地質図v2」に記載の活断層図による。
この一帯で隆起活動が始まったのは、第四紀の前期(約180万年頃? ;注2)と推定されています。
続いて第四紀の中期(約100万年〜50万年頃? ;注2)には、恵那山から南西方向(猿投山)への隆起軸を主体に、大規模な波状の地形の変形が起こったと推定されています。
その後、第四紀後期(注2)には、変動様式が変化しました。北東―南西軸の断層系と、それと直交する北西―南東軸の断層系が形成されて活動し、各断層に区切られたブロック(地塊)ごとに、さまざまに隆起、傾動運動をした、と推定されています。
現在、この地域には、北東―南西軸の断層としては、屏風山(びょうぶやま)断層があり、累積垂直変動量は少なくとも600mと見積もられています。この断層は恵那山と中津川盆地との間を走っています。
また、北西―南東軸の断層としては、阿寺(あでら)断層があり、これも累積垂直変位量は少なくとも600mあります。阿寺断層(崖)は、御岳山の南側に広がる、阿寺山地という低い山地の南縁を区切っていますが、その延長線は、恵那山の北側、神坂峠付近を通っています(なお、神坂峠付近は、活断層ではない)。
恵那山付近には、北西側に、屏風山断層と並行に、川上断層があり、南側には東西方向の走向を持つ恵那山断層があります。さらに東側にも、木曽山脈西縁断層帯から派生した、清内路峠(せいないじとうげ)断層(帯)という南北走向の断層群があります。全体的にみると、恵那山付近は、3つの断層群に区切られた、三角形をしたブロック状の地塊を形成しています。
このような活断層に区切られた各ブロック状地塊の運動の中で、恵那山ブロック(地塊)は、特に大きく隆起して、2000mを越える標高になったものと推定されます。
なお、恵那山ブロックを囲む、屏風谷断層、川上断層、恵那山断層、清内路峠断層、神坂神社断層は、いずれも活断層と認定されています(注3)。ということは現在でもそれらの断層の活動によって、恵那山ブロックは隆起を続けているのかもしれません(私見です)。
注2) (文献1)は、2006年に出版された書物です。「第四紀」の始まりの国際的定義は、2008年までは179万年前でしたが、2009年以降は 259万年前と、2009年に定義が変更されました。よって(文献1)で言うところの「第四紀」の範囲は、180万年前から現在まで、と考えられます。
注3)産総研「シームレス地質図v2」に記載の活断層図による。
(参考文献)
文献1)町田、松田、海津、小泉 編
「日本の地形 5 中部」東京大学出版会 刊 (2006)
のうち、6−1章 「東濃・三河高原」の項、
および 6−2章 「濃尾平野と木曽谷」の項。
「日本の地形 5 中部」東京大学出版会 刊 (2006)
のうち、6−1章 「東濃・三河高原」の項、
および 6−2章 「濃尾平野と木曽谷」の項。
このリンク先の、3−1章の文末には、第3部「中央アルプス」の各章へのリンク、及び、序章(本連載の各部へのリンクあり)を付けています。
第3部の他の章や、他の部をご覧になりたい方は、どうぞご利用ください。
第3部の他の章や、他の部をご覧になりたい方は、どうぞご利用ください。
【書記事項】
初版リリース;2020年10月7日
△改訂1;文章見直し、一部修正。3−1章へのリンク追加。書記事項追記。
△最新改訂年月日;2022年1月5日
△改訂1;文章見直し、一部修正。3−1章へのリンク追加。書記事項追記。
△最新改訂年月日;2022年1月5日
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
ベルクハイルさんの記事一覧
- 日本の山々の地質;第7部 東北地方の山々の地質;7−9章 奥羽山脈(3)奥羽山脈の非火山の山々、及び奥羽山脈の隆起について 9 更新日:2024年01月27日
- 日本の山々の地質;第7部 東北地方の山々の地質、7−8章 奥羽山脈(2) 奥羽山脈南半分の火山群 11 更新日:2024年01月15日
- 日本の山々の地質 第1部 四国地方の山々の地質、 1−10章 香川県の山々;讃岐山地、香川県の山々の地質と地形 18 更新日:2023年03月18日
※この記事はヤマレコの「ヤマノート」機能を利用して作られています。
どなたでも、山に関する知識や技術などのノウハウを簡単に残して共有できます。
ぜひご協力ください!
故郷周辺には百名山はないのか、と思っていたら三河高原に恵那山がある!と知り、気分上がりました!
展望台に登っても景色見えないし、登山中もあまり景観変わらないし、愚痴られる山です。でも、ガスってると雰囲気あるし、シャクナゲやオウレンの咲く時期はほんとキレイなんです。祠に信仰の歴史を感じることもできるいい山で大好き。
と言っても、やっぱり遠くて県外だから自粛中には行けそうにもありません。親近感がわいてさらに好きな山になりました!ありがとうございます!
taki87さん、こんばんは。and はじめまして。
私の書いた拙文を読んで頂き、ありがとうございました。
恵那山は私、30年ほど前に登りました。秋でしたが頂上付近では小雪も舞う寒い日でした。でも登山口から中腹までの紅葉がキレイだったのを思い出します。
独特の饅頭型をしているので、名古屋市内や新幹線の車窓からも見えるし、良い山だと思います。四国に住んでいるので、多分、これから改めて登ることはないと思いますが、、、
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する